チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」

「こだまなくらしサークル」のヒビキ



評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第27章

愛として見るかB

ディセンションとアセンション


YouTube録音動画

 


源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

「全てのイシキ存在たちの源・・・神である全体・・・から、

地球次元の見える領域で体験している私たちの「やっほー」と呼ぶ声に答えて、

源の波動のヒビキ・・・コダマとなって還って来たメッセージ・・・というイミ。」

 

さてもう少し、この (全体)と(あなた)というコトバと視点で

お話を続けてみたいと思います。

 

(全体)が成り続けた、幻想の舞台の上でのあらゆる感情体験・・・

それでもやはり、(あなた)は、良いモノだけが欲しかった・・・、と思うかもしれません。

 

しかし極性とは、この次元(人の知覚する現実世界)ゲームのルールであり、

極性の中では、良く見えるモノも、悪く見えるモノもある・・・のです。

 

良いモノだけしかない世界」・・・、

それでは、(あなた)極性の幻想ゲームを選択したイミがありません。

 

良いモノだけしかない世界」・・・、けれど、もしも(あなた)がそれを本当に望み、

見たい、体験したい、体感したい・・・のであれば、

その世界も、本当は、すでに、いま、ここに、「在る」のです。

 

そして、そこへと向かう扉は、その(あなた)の内にしかないのです。

(あなた)がそれを見るには、内に在る(全体)

「フィーリング」「ヒビキ」「その・・・感じ」を感じることを通して

ゲームを超えるしかない・・・と言えるでしょう。

 

(あなた)が、すでに、ずっと在った、内なる(全体)の実在感

自己体感として受け取り始めた時、すでに在った統合」に気付き、

極性や分離の幻想もまた、見えてくることでしょう。

 

では、ここでもう少しこの極性・分離について、コトバを使ってお伝えしましょう。

 

善悪・・・明暗・・・陰陽・・・光と闇の世界・・・

極性の中では、全てが必ず「どちらかに振れる」です。

実在・実相の真理も、この次元のコトバや概念に落としこむ時、

この極性によって、必ずどちらかに振れてゆきます

 

そう・・・、偏る(かたよる)・・・のです。

 

多くの修行や修養・武術・ヨーガ・瞑想・エネルギーワークなどの様々なメソッドの中で、

人々は「中庸・ちゅうよう」というものを目指すことがあります。

 

それは、この極性の世界に於いては、極性を超えることが「中庸」に在るからなのです。

しかし、それは理屈ではありません・・・理論や考察によって、

また自分を追い詰めるような修行によって、

それを真に知ることは出来ないのです。

 

たしかに、そういう仕組みだ・・・と知ることは出来ます。

しかし、真に知るとは・・・体感なのです。

 

体感を通して極性が見え始めた時、

極性の中にいて極性に惑わされなく成るのです。

 

ですから、あなたもぜひ、様々な感情を手放し続けて、

・・・「知っている」と「決めて」

・・・「すでにそうである」と「決めて」

 

その体感・・・「極性を見ること・超えること」を、

自ら呼び込んでいただきたい・・・と思います。

(自ら呼び込むこと、自分で自分の気分を変えて行くことでしか、その体感は得られないのです)

 

そして分離もまた、この次元(人の知覚する現実世界)ゲームのルールであり、

分離の中では自分は、神と、全体と、人と、あらゆるものと、離れているように感じるのです。

 

分離の中では、全てが別々に見えています。

実在・実相の真理も、この次元のコトバや概念に落としこむ時、

この分離によって、必ず分離感が付け加えられてゆきます

 

そう・・・、隔たる(へだたる)・・・のです。

 

しかし多くの(あなた)は分離の中にいながらにして、

常に、この分離を超えたことを感じたい・・・と思っています。

 

たとえば、誰かと心を通わせたり、自然の中で山や風やせせらぎを感じたとき、

また、何かを手に入れて自分のものにした時などに、

多くの(あなた)は喜びを感じることでしょう。

 

それは、分離を超えた・・・その一瞬の喜びが、

その(あなた)の実在・・・内なる(全体)と波動共鳴する・・・ヒビクからなのです。

 

しかし、それらは一瞬の内に分離に落とされ、またそれが極性によって振れるとき、

執着や抵抗となって(あなた)を縛るのです。

 

何かや誰かを自分よりも愛し執着したり、物質や経験を追い求めたり、

また、誰かとひとつになれる感覚の恋や性を追い求めたりして、

この世界の「煩悩」といわれるものに振り回されます。

見える世界を追い求め、見えない世界・・・内なる(全体)の平安見失うのです。

 

しかし、分離を超えること・・・それもまた理屈ではありません

・・・理論や考察によって、また自分を追い詰めるような修行によって

それを真に知ることは出来ないのです。

 

たしかに、そういう仕組みだ・・・と知ることは出来ます。

しかし、真に知るとは・・・体感なのです。

 

体感を通して分離が見え始めた時、

分離の中にいて分離に惑わされなく成るのです。

 

ですから、あなたもぜひ、様々な感情を手放し続けて、

・・・「知っている」と「決めて」

・・・「すでにそうである」「決めて」

 

その体感・・・「分離を見ること・超えること」を、

自ら呼び込んでいただきたい・・・と思います。

(自ら呼び込むこと、自分で自分の気分を変えて行くことでしか、その体感は得られないのです)

 

この極性分離、そして時間空間の幻想の次元で体験を続ける(あなた)・・・

・・・その(あなた)とは、本当は・・・、弱々しい、他から貶められ、断罪され、

罰としてこの現実世界に落とされ、閉じ込められ、

修行をさせられている存在などではないのです。

 

あるいは、救世主として生まれ、

他の人々や世界を救う為に送り込まれ、使わされた存在でもないのです。

 

その人がその人自身を救うのであって、誰も救わなければならない者などいないのです。

そしてまた、その人が自分自身でそれを選択するまでは・・・、

誰もその人を救うことは出来ないのです。

 

そして私たちもまた、(あなた)を救おうなどとは思っていません。

一体・・・?何から・・・?誰から・・・?どうやって・・・?救えばいいというのでしょう?

 

すでに、常に、(全体)とひとつで、決して離れたこともなく、

常に安全で、完全で、愛そのもので、傷つくことなど絶対にありえない、

(あなた)という存在を・・・。

 

一体・・・?何から・・・?誰から・・・?どうやって・・・?救えばいいというのでしょう?

ただ、この分離や極性の幻想ゲームの体験という、夢の中にいる

かつても、いまも、これからも、無垢で純粋な幼子である、(あなた)という存在を・・・。

 

私たちは、ただ・・・(あなた)が幻想から目覚める、

そのきっかけの素材になることしか出来ないのを知っています。

それも、(あなた)が、そう選択するならば・・・であって、

誰も、何も、押し付けることなど出来ないのを知っています。

 

何故なら全ての人は・・・、どんな人も・・・、誰もが・・・、

自分自身でそう求め・・・「希求」し

その道(幻想を超えること)を選び・・・「選択」し

自分自身で体感を呼び込む・・・すでにそうであると「決める」

・・・ことでしか、幻想を超えることが出来ないのを、私たちは知っているからです。

(それでも、もちろん、これを読むあなたには、そうしていただきたい・・・と思ってもいます)

 

そしてまた、(あなた)が、ここ・・・地球の、この次元の、現実世界の

人間のカラダという乗り物に乗って、

いま・ここの、その全てを体験しているのは、

その(あなた)自身「選択」でしかありません。

 

何故なら、(あなた)自身が(個と全体)であり、

見える世界・見えない世界・宇宙の隅々まで、

神以外のものなどひとつたりとも存在しない・・・出来ない・・・のですから。

 

その神自身が、何かを誰かにやらされたり、他から貶められたり、何かを失ったり、

断罪されたり、罰としてこの現実世界に落とされ、閉じ込められたり、

修行をさせられていることなど、絶対にありえないのではないでしょうか?

 

ただ・・・忘れたフリをして、再び思い出す・・・、

ただ・・・見えないフリをして、再び見い出す・・・、

ただ・・・離れたフリをして、再び統合する・・・、

自分がどんな存在なのか、ただ・・・知らないフリをして、再び知る・・・、

 

全ての幻想を超えて、(全体)(あなた)が、すでに「ひとつで在る」ことを、

そして全てが、自分自身だけのために「ただ在る」ことを、

ゆえに(あなた)もまた、「ただ在る」だけで良いのだということを・・・再び知る・・・、

 

それらを、その(あなた)自身の感じること、

フィーリング、センセーション、体感、実感、として感じ、真に知る・・・、

そして、すでにそうで在った・・・と目覚める

 

・・・・そのために、ただ・・・階段を下りて登る、

ただ・・・下降して上昇する、

ディセンションして、アセンションする、

 

(あなた)は、それをやろうとしてこの次元に来た、

しかし、たくさんの幻想で、自分自身の本質を見失い、

永きに渡ってこの世界に埋没しても来た

人によっては何度も何度も・・・、人によっては何千年も何万年も・・・

 

それは確かに、極性のコトバ・・・によれば、良くも悪くも思えることだろう・・・、

それは確かに、分離のコトバ・・・によれば、

神(全体)と離れたとか、(全体)と再びひとつになる、と思えることだろう・・・、

 

しかし、それは単に、自分の内なる気分(イシキの在り方・イシキ状態・気持)

様々な方法を使って自分自身で変容させ、

すでに内に在る限りない波動を感じて受け容れ、

 

すでに内に在った高い想念や波動に、

自分自らが成ってゆく・・・ということなのです。

 

幻想の中で、その幻想ゆえに、

低い波動と共鳴することを自分で選ばず

内成る高い波動・・・限りない想念を感じて現し、

高い波動と共鳴してゆくことを自分で選ぶ

 

故に、波動的には確かに、下降して上昇しているように見えるかもしれないが、

それらは、もともと内に在った高い波動を、自分で常に選択し、自分で常に決めて

それそのものに成りゆく」・・・だけだったのです。

 

それを分離感や極性の在るコトバで現す時、

下降や上昇・・・ディセンションしてアセンションする、

・・・ということになるかもしれない、

 

だが、下降も上昇も、階段をただ降りて、ただ登るだけなのを、

あなたは、良いとか・悪いとか言うのでしょうか?

ビルの中をエレベーターで上がったり降りたりするとき、

あなたは、良かったとか・悪かったとか思うのでしょうか?

 

それらは全て、「あなたというビル」の中にもともと在った、

そして、かつて失われたことも、永遠に失われることも決してない・・・、

それが、人(あなた)の内なる源の波動であり、内なる神という全体であるのです。

 

全ては、・・・ただそう見えているだけで

本当は良いモノも悪いモノもないのです。

しかし、(あなた)が下降して上昇する・・・、その時、その(あなた)にとっての

良いモノだけしかない世界」・・・が必ず見えてくる、

 

そして、(あなた)は、すでに、ずっと、いつの時も、

そこに居続けていたことが見えてくるのです。

 


どんな神を選ぶのか


それは全てが、ただそう見えているだけで、良いモノも悪いモノもない・・・、

・・・それを(あなた)が本当に感じることが出来たとしたら、

その時、その(あなた)にも、様々なことが見えてくることでしょう。

 

(あなた)の全ての断罪は払拭され、全て天罰などなく、

(あなた)は罪悪感を持つ必要もなく、

(あなた)には罪などない、罰などない、悪魔などいない、

(あなた)には試練も地獄もない、(あなた)には失敗も過ちもない、・・・のです。

 

そして、誰も、何も、責めることは出来ない、

治めるモノも、治められるモノもいない、・・・のです。

 

さて、私たちは、ここで(全体)と(あなた)というコトバを使ってきました。

そして、私たちがここで語ってきた、その(全体)は、

単にひとつの言い方、「コトバ」にしか過ぎません。

 

しかし私たちが語ってきた、その(全体)は、これまでの歴史の中で、

人類が創ってきた「」とはだいぶ違っているかもしれません。

 

人類が創ってきた「」・・・、

そして、人類が創ってきたあらゆるカタチの「宗教」や「教え」・・・、

 

それは誰かが誰かを治める為の、あるいは自分自身を治める為の、

おそれと断罪、罪と罰のある「」ではなかったのでしょうか?

 

こうしてはいけない、こうあらねばならない、といった

あらゆる「」のある「宗教」や「教え」ではなかったのでしょうか?

 

もしもそれが、どんなカタチであれ、罪と罰のある「神」だったのならば、

それは単に現実という幻想ゲームの中の、

人の「創作」にしか過ぎない・・・、

 

もしもそれが、どんなカタチであれ、枠のある「宗教」や「教え」だったのならば、

それは単に現実という幻想ゲームの中の、

人の「創作」によるルールにしか過ぎない・・・、

 

たとえその始まりは、「神を体現して生きた者たち」から来ていたとしても、

人から人へと伝わるうちに罪や罰や枠が出来てしまったのだとしたら・・・?

 

本来のその教えを、幻想の分離や極性の中で、

解釈し、理解しようとしたことによる、「歪み」が生まれたのだとしたら・・・?

それは単に、現実という幻想ゲームの中の、

「神」や「宗教」や「教え」という「コトバ」にしか過ぎない・・・、のではないでしょうか?

 

(・・・すべては限られた領域から来たか、限りない領域から来たか・・・

それを語る存在の、イシキや認識は、どこまで開かれ、どう感じ、どう捉えているのか、

あまねく溢れ降り注いでいる情報(思考、感情、想念)の

どこにアクセスし、どこまでを「知り得ているのか」にしか過ぎない、・・・ということを

19・真実はあなたが創リ続けるものにてお伝えしました)

 

幻想の極性による「偏り・かたより」・・・が、そこには見えないだろうか?

幻想の分離による「隔たり・へだたり」・・・が、そこには見えないだろうか?

いつの時も、それを「あなたが創り続ける真実」の指針にすることです。


さて、私たちの感じている(全体)・・・、ここで語ってきた(全体)は、

愛として、永遠に「ただ在る」、

ただ「在り」続ける、その「全て」なのです。

そこにはどんな罪も罰も枠も、一切が存在しないのです。

 

では、(あなた)は、何を、どれを、自分の真実としたいのか

いつも、どんな時も、選ぶのは、その(あなた)自身なのです。

「どんな神を選ぶのか」・・・は、

その(あなた)の選択でしかないのです。

 

どんな罪も罰も枠も存在しない、

愛として、永遠に、ただ「在り」続ける(全体)・・・、

それでも、(あなた)は、この世には決して許されない残虐や、

受け容れがたい悲劇もある・・・と思うかもしれません。

 

しかし、それも、これも、あれも、どれも、何もかもが、

それらは、本当は光でしかできていない・・・、

(全体)が成り続けている舞台で演じられている劇でしかない、

そう、全ての全てが、たとえ、どんなことであろうとも、

本当は愛でしかない・・・、のです。

 

だから、たとえ何が起ころうとも・・・、

そして、たとえ誰が何をどうしていようとも・・・、

それは、その(あなた)自身が、

体験したくて見ている「現実という夢」であること・・・、

その夢の全てに、(全体)が成リ続けていること・・・、

 

それが、(あなた)に見えてくれば、

その時、(あなた)は、全てを、「ただ在る」ものとして、

全てを、(全体)として、見ることが出来る・・・、

 

(全体)の、限りのない愛のスガタとして見ることが出来る・・・、

全てをただ、「愛として見る」ことが出来る、・・・のです。

 

すると、「良いモノだけしかない世界」・・・が見えてくる、

そして、(あなた)は、すでに、ずっと、いつの時も、

そこに居続けていたことが見えてくるのです。

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共に、ただ・・・手放して

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない、永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・「こだまなくらしサークル」のヒビキ 

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