チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」

「こだまなくらしサークル」のヒビキ



評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第29章

永遠の「いま」A

タイムラグ


YouTube録音動画

 


源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

 

時間」とは・・・、あなたがこの現実世界を体験する為の幻想であり、

本当は、永遠の「いま」だけがある・・・ということを、これまでもお伝えしてきました。

 

では、この永遠の「いま」が在る・・・、あるいは永遠の「いま」しかない・・・、

・・・とは、一体どういうイミ、どういった感じ・・・なのでしょうか?

 

時間」という枠組みのある、この現実世界の中で、

そのことを、どんな風に捉えてゆけば良いのでしょうか?

もしも本当には、永遠の「いま」しかないのだとしたら、

過去」と「未来」は、一体どこに行ってしまったのでしょうか?

 

これは、コトバの記述や概念を超えていますが、

あえて言うならば、過去未来永遠の「いま」に重なっていて、

過去未来永遠の「いま」に在る・・・とでも言うことが出来るでしょうか。

 

人は「過去」を・・・「過ぎ去った時間」・・・と考えます。

しかし、それは実在・実相に於いては、永遠の「いま」にあります。

 

人は「未来」を・・・「これから来る時間」・・・と考えます。

しかし、それは実在・実相に於いては、永遠の「いま」にあります。

 

すると、「過去」も「未来」も、全ては同時に 永遠の いま・ここ に在る

・・・と言うのが、実在・実相に於ける真実・・・ということになります。

 

しかし実際には、前述したように、ここにはコトバの限界があるのです。

いま」というコトバは、「過去」と「未来」という相対するものが在るからこそ、

いま」・・・と、コトバにすることが出来るのです。

 

しかし、もしもその相対する過去」と「未来」が幻想であるならば、

いま」もまた、本当は幻想だということになるのではないでしょうか?

ですから、「無時間」・・・というのが実在・実相に於ける真実に近いものであり、

本当は、「いま」という概念さえも無いのです。

 

しかし、それでは表現が出来ませんから、幻想の中での表現の為のコトバが、

いま」とされているだけであり、実在・実相に於いては、

「永遠のいま」が在る・・・「永遠のいま」しかない

・・・というのが「まあ近い」・・・ということしか出来ないでしょう。

 

この、実在・実相に於ける・・・「無時間」は、あなたも含めた各々の個が、

自分自身で幻想を超えて、「体感として知る」のであって、

コトバにする時、そこにまた限定を創ってしまうのです。

 

それは、コトバの記述や概念として知るのではなく、あなたが「そう感じる」ものです。

しかし同時に、どのようなことであれ、「自分は一度もそれを体感したことが無い」・・・と、

あなたが想ったり、決めたりしてしまうと、

あなたは、あらゆる「体感」を見失うことになります。

 

あなたは、花を花と知っていることでしょう・・・

人は気付いていないかもしれませんが、その人が「花を知っている」・・・というのは、

実際には、「感覚」「体感」としての、「その感じ」知っているのです。

 

もしもあなたが、「花」を見たことも触れたことも無い・・・「花」を全く知らない宇宙の存在に

「花」のことを伝えようとしたら、「花とはこういったもの」・・・というような、

花に関する知識・・・情報だけしか伝えることが出来ないでしょう。

 

そういった「花」に関する様々な人類の知識や情報は、全て後付けであって、

実際には人は、花が「どんな感じ」のものか、見たり、触れたり、

香りをかいだりした記憶や、その時に感じたフィーリングによって、

「感覚「体感」として知っている・・・その感じ」を、魂に保存しているのです。

 

そして、人は、「花」・・・と想ったり言われたりした時、それが「どんな感じ」のものかを、

瞬時に、「感覚」として感じている・・・のです。

 

実際には、この無時間もまた、あなたの魂は保存しています。

それは、「どんな感じか」・・・という「その感じ」を保存しているのです。

 

そしてそれは、この世界の幻想の中で過ぎ去ってしまうかもしれないけれど、

あなたは日々の暮らしの中で、内なる本質の自己(源)を感じる様々な一瞬

実際には、「その感じ」を感じてもいるのです。

 

けれど、あなたが、何かを「知らない」「感じたことが無い」・・・と決めてしまうとき、

あなたは、あらゆる「体感」を見失ってしまう・・・のです。

 

だからこそ、あなたにしていただきたいのは、どんなことも「知っている」と決めること、

そして、理屈でわかろうとすることでなく、いつでも、「ただ・・・感じること」です。

・・・内成るフィーリングで・・・内成る本質のあなた・・・内成る源で・・・。

 

何故なら、あなたは、始まりの時から永遠に完全な存在であり、

その完全さが損なわれたことは一瞬たりとも無く失われたものも一切無いからです。

そして、あなたは、幻想の中で体験し続けることを選択してきただけであって、

学ぶことも、教わることも無く、本当は「全てを知っている存在」だからです。

 

たとえそれが、コトバによる説明であったとしても、

それはどんな感じかな?」・・・と、始まりとして「感じたい」と望み(希求し、選択し

知っている」「自分はそれを感じる」・・・と決めて(決定して)いただきたいと思います。

・・・現実世界とは、あなたの決定が現れる世界なのですから。

 

さて、では、この幻想の「時間」を、

過去」「いま」「未来」というコトバを使って、説明してゆくことにしましょう。

 

「時間」幻想のある、この現実世界とは、

あなたが「いま」考え、感じることが、やがて「未来」に、

実際に自分自身の目で見ることが出来るカタチとして現れ、

それによって様々な体験ができ、感情を味わえる・・・という次元です。

 

そして、この現実世界の、その目的とは・・・、

人間の体験によって、様々な感情を味わう」こと・・・であり、

個を体験する光のイシキ存在(あなたと他の個)によって創られました。

 

では、もしも現実世界に、この「時間」幻想がなかったとしたら、

一体どうなってしまうのか、ちょっとご一緒に見てゆきましょう。

 

・・・もしも「時間」がなかったら・・・

全ては、あなたが考え感じた途端に、実際に目で見ることが出来るカタチとして、

永遠の「いま」に現れている・・・ということになるでしょう。

・・・何故なら、未来はないのですから。

 

・・・もしも「時間」がなかったら・・・

現れた全ての体験は、実際に目で見ることが出来るカタチとして

同時に、永遠の「いま」に在り続ける・・・ということになるでしょう。

・・・何故なら、過去はないのですから。

 

すると、体験も、その体験によって味わう様々な感情も、

全てが混ざり合っていますから、まずは混乱をきたすことでしょう。

 

そして、あなたが体験している現実世界は、それを創造した本来の目的・・・、

人間の体験によって、様々な感情を味わう」ための遊び場・・・として

機能しなくなってしまうことでしょう。

 

そこで、この「時間」幻想が在るのですが・・・

さて、では上記のこの考察によって、あなたにも見えてきたかもしれません。

それは、私たちがこれまでも折りに触れお伝えしてきた、

もうすでに、同時に、いま・ここ に全てがある」・・・ということが。

 

あなたが「いま」感じることが、

いま」に重なって、すでに、同時に、ここに、在る「未来」に、

拡大されてもたらされる・・・ということが。

 

だからこそ、「いま」何を感じているか・・・この、

永遠の「いま」「イシキの在り方」が重要である

・・・と言われているのです。

 

さて次の文は、20章・在る@ただ「在る」こと の中で、

時間のパラドックスについて触れた文章です。


時間」とは、この現実をあなたが体験するために創り出された「幻」「夢」「幻想」です。

本当は「時」はなく、「永遠に続くいま」 しか存在しないのです。

 

その「幻」である「時間」の中で、いつかやって来るであろう「未来」「幸せ」になろうとすれば、

あなたは永遠に「幸せ」にはなれず、いつまでも「幸せ」を追い求め続けることになるのです。

 

これは、時間のパラドックスともいえるでしょう。

 

「幸せ」はいつかなるもの・・・ではなく、いま・ここ で、

たとえ小さくても、何かに「幸せ」を感じることで、

「時間」という幻の中の、「明日」や「いつかの未来」に、

拡大したあなたの「幸せ」がやってくるのです。

 

・・・(中略)・・・

 

そして、正確に言うならば、この「時間」は幻想なのですから、

それは決してやってくるのではなく、

もうすでに、同時に、いま・ここ に全てが在る

 

ただ見えないだけでもう存在しているからこそ、

いま、あなたが感じることが拡大し続け、あなたに体現され続けるのです。

 

この「時間のパラドックス」が、

いま・ここ に、あなたの周りにすでに在るものに「喜びを感じる」ことが、

あなたにとって素晴らしいことなのだ」・・・と言われるゆえんでもあります。

 

この「時間のパラドックス」が、

いま・ここ に、あなたの周りにすでに在るもの・全てに「感謝する」ことが、

幻想の「明日」「いつかの未来」に、

あなたにもたらすものが大きい」・・・のもそのためなのです。


さて・・・この文章の中で、「いま」感じること・考えたこと・決めたことなどが

幻想の「未来」に拡大してもたらされる・・・ということを書いてきました。

 

しかし、多くの人は、常に、この無時間の「永遠のいま」を使って、

幻想の「過去」や「未来」へとイシキタイムトラベルさせています。

 

過去」に対しては、「あの時ああしていれば」「何故こんなことに・・・」といった後悔や反省

あるいは、「あの頃は良かった」「あの頃に還りたい」といった

永遠のいま・ここ」からの逃避として・・・。

 

未来」に対しては、「心配だ」「こうなったらどうしよう」といった不安や恐れ

あるいは、「いつか幸せになりたい」「今は駄目だが完全を目指す」といった、

永遠のいま・ここ」の、平安や完全性を見逃す勘違いや逃避として・・・。

 

しかし、人が「未来」を考えているその瞬間・・・それは、この「永遠のいま」です。

人が「過去」を考えているその瞬間・・・それも、この「永遠のいま」です。

 

こうして人は、実際には、この「永遠のいま」を使って、

幻想の「過去」や「未来」にイシキを移行させていますが、

それでは、まるで、ゲームの中でゲームをしていることになってしまうのです。

 

過去の自分キャラを、後悔や逃避といったイシキで感じ

未来の自分キャラを、不安や逃避といったイシキで感じ

いまの自分」というキャライシキ的になるのは、その合間だけということになります。

 

けれど、それでは、あらゆる「いま」を見失うことになります。

 

何故なら、本質のあなたは、実在・実相「無時間」=「永遠のいま」に「在る」

・・・ということを、イシキ的になって選択し、決定しなければ、

あなたは、「永遠のいま・ここ」を生き始めることが出来ないからです。

 

また、「永遠のいま・ここ」十全に生きることを始めなければ、

全てのパワー「永遠のいま・ここ」に於いて使えないことにも成るでしょう。

 

たとえそれが「栄光」や「愛」に満ちた「過去」や「未来」であっても、

あなたという存在が、それを「逃避」として使うとき、

ゲーム内ゲームイシキを集中することによって、

「永遠のいま・ここ」パワーは薄れるのです。

 

幻想ゲームの中で、再び幻想ゲームに埋没し、

本当は存在しない過去や「未来」に出掛け、イシキがタイムトラベルをしていては、

「永遠のいま・ここ」のゲームをしていないことになる・・・、あるいは、

全く違うゲームをやっていることになってしまう・・・

 

あなたの体験している現実世界は幻想だけれど、

あなたが主人公の、あなたが選んだ、あなただけの冒険ゲームなのです・・・

 

その、「永遠のいま・ここのあなた」・・・という、あなたにとって一番大切な主人公

まずは、イシキ的になって十全にやる・・・と決めなければ、

この幻想ゲームを超えることは出来ないのです。

 

どうか、「永遠のいま・ここの、自分が感じているもの・フォーカスしているもの・

決めていること・に、常にイシキ的になっていただき、

過去」は、再び同じことを選択はしないといった、データ収集のために使ってください。

 

反省」とは、そういった使い方をして活かすものであり、たとえどのような「過去」であっても、

いつまでも「反省」に留まらず、「永遠のいま・ここ」に役立たせることです。

 

また「未来」は、ビジョンを描く希求・選択のためのデータとして使ってください。

そして、「未来」の「希望」や「」を想い描いた途端に、

「すでにそうである」と、「永遠のいま・ここ」に決定すること

 

あなたの決定があなたの未来に現れる

・・・ここはそういう仕組みの幻想世界なのですから。

 

さて、あなたが欲しいモノ、知りたいこと、

その全ては、「すでに いま・ここ にある」・・・ということをお伝えしてきました。

 

しかし、「時間」幻想があるこの現実世界では、

それを実際に、見るようになる、知るようになる、体験するのは、

いま」に重なっているかもしれないけれど、実際には「未来」と言われる時ですから、

そこには「タイムラグ」というものがある・・・ということになるのです。

そこで、この「タイムラグ」についてお伝えしてゆきましょう。

 


タイムラグ時の緩衝帯

 

では、もしもこの「タイムラグ」がなければ、一体どうなるのでしょうか?

・・・それは、あなたが思ったことや感じたことが全て、すぐに現実化することになります。

 

これは一見よさそうにも見えますが、

分離や極性といった幻想の中で、この現実世界を体験している場合、

あなたが思考と感情を完全にコントロール出来る存在」に成っていなければ、

それは、とても危険なこともあるのです。

 

あなたは何かを見たり体験したりして、「恐れ」を感じることもあることでしょう。

・・・そんな時、もしもこの「タイムラグ」が無ければ、それは途端に実現するのです。

 

しかし実際には、この現実世界には「タイムラグ」があるので、

あなたが、たとえ「恐れ」や、その他の実現して欲しくない感情を感じてしまったとしても、

他のモノに目を向けたり、それを変化させたり、手放したりすることで、

それを現実の中で、実際には体験しなくてすむことも、数多くあるのです。

 

現実世界には分離幻想が在ること・・・

この分離幻想によって、あなたは「分離感」=「不協和音」を感じること、

その「不協和音」があなたが感じる「いやな気分」である・・ということは前章でお伝えしました。

 

あなたはいつでも自分の手や足などのカラダを見ていますし、

その、あなたのカラダは、実際に全ての物質や他の人とも離れて見えていますから、

それは「分離幻想」の中では動かしがたい感覚であり、あなたはその固い信念や観念によって、

全てと離れている」・・・と、いつも認識し決定しています。

 

そして、あなたという個の創造力によって全体が現れて見せている出来事も、

極性幻想」で「良い・悪い」と感じ、また「分離幻想」がもたらす「分離感」によって

出来事に抵抗や執着をして、「不協和音」を感じます。

 

ですから、この「分離幻想」を超えること・・・現実世界の見えるものやことに

囚われないように成ることが、大きな壁や深い崖にも見えています。

 

しかし同時に、この分離幻想によって、あなたは、

他のものや出来事によって癒されることもあるのです。

 

たとえば、ここ現実世界では、いやな事があっても、

美味しい物を食べたり、お風呂に入ったり、自然に触れたり、ペットと遊んだり、

そういったカラダの感覚からも、ビジョンや感情を変えてゆくことが出来ます。

 

他の人々との交流から、愛を与えたり受け取ったりしながら、

悲しみを喜びに変化させてゆくことも出来るでしょう。

あるいは、自ら手放すことを決め、カラダの動作や呼吸を使ってもそれができる・・・、

そういったイミでも、あなたのいまいる現実世界は、

その様に使いこなすことが出来るならば、とても素晴らしいところなのです。

 

しかしもちろん、これらは全て、その見えている何かや誰かが変えてくれたのではなく、

実際には、無イシキの内にであっても、全て自分でそう選択し、自分でそう決定しているのです。

 

しかし、もしも「タイムラグ」が無い場合・・・、あなたが前述したように

思考と感情を完全にコントロール出来る存在」に成っていなければ・・・、

目をそらす暇もなく、次々と「想い」が実現化するので、

体験が重なるだけではなく、あなたにとっては本当に危険なこともたくさんあることになります。

 

実際には、この「タイムラグ」があることによって、あなたは守られ、

そして、この現実世界に於いての体験と経験と、

それに伴う様々な感情の収穫が出来ている・・・ということになるのです。

 

タイムラグ」は他でもない、あなた自身からあなたを守る緩衝帯となってきたのです。

そこで私たちは、この「タイムラグ」のことを「時の緩衝帯」と書いてみました。

 

さて、この「タイムラグ(時の緩衝帯)」がない場合、

恐れ」を感じれば途端にそれは実現する・・・と書きましたが、

 

たとえあなたが、ネガティブな気持ちになっていなくても・・・、

たとえば、・・・本当は死などないのですが、あなたが自分の死後の準備のために

遺言や死んだ後の財産のことなどを考えながら、

自分の葬式を想像し、お墓に入るところを想像し、

ついでにそこに感情が伴えば、あなたはすぐに死んでお墓に入ることになるでしょう。

 

あなたが、もう一度この現実世界での体験をしたいと望むならば、

又、誰か子供を生もうとしている存在を探して、

長蛇の列の一番後ろに並ばなければならない・・・ということになります。

 

では、もう一度「恐れ」の方を見てみましょう。

タイムラグ」がない場合、映画を見て、恐い場面や悲惨な場面に心動かされ、

あんな目にあったらイヤだ」と思えば、それは、すぐに実現するでしょう。

 

それは、何かを「恐れる」とき、あなたは無イシキの内に、

そんな目に遭っている自分を想像し(ビジョンを描き)

又、その感情を感じているから・・・です。

そのため、様々な師たちが「恐れを恐れよ」と言ってきました。

 

あなたは無イシキにしょっちゅうそれをやっているのですが、

恐れること」には、とても強いインパクトがあるので、

実際には、あなたは瞬時に「感情」を伴って「考え」、それを「ビジョン」として描き、

フォーカスし続けることによってその実現化を望み、

それを確実に引き寄せていることになるのです。

(もちろん、私たちはあなたを恐れさせようと思っている訳ではないのですが・・・、笑)

 

ですから、あなたが「恐れる」、・・・その見えるものやこと、

あるいは「タイムラグ」によって、「いま」はまだ目の前に現れていないものやことよりも、

 

あなたが「いま」感じている、その「恐れ」という

「フィーリング」の方が、ずっと「恐ろしい」

・・・ということになるわけです。・・・もちろん、これは極性幻想を使った比較になりますね。

 

【ここで質問・・・では、現在騒がれている放射能よりも、

私たちの「恐れ」の方が「恐ろしい」のでしょうか?

・・・kodama・これは、2011年の311のすぐ後のころでした

 

ガイド・・・その通りです、死を超えてアセンションすることを希求・選択・決定するならば、

生きることや死ぬこと自体を恐れることを、まず超えてゆくことが、

いまの人類・・・多くの存在の課題でしょう、その為だけとは言いませんが、

その後押しをも含めた全体としての現実創造と成っている・・・と、私たちは感じています。

もちろん、どう感じ、どう決めるかは各々の個が感じ、決めることです。

 

又、「比較」というのは、極性幻想を使った判断にしか過ぎません。

前述した「恐れを恐れよ」・・・とは、極性の比較でしゃれを効かせ、

インパクトを与える為の方便だったのではないでしょうか?

 

個々の存在たちは皆、幻想を超え、

分離も比較も無い実在へと還ろうとしているのですから、

分離や比較の対象と成るもの・・・「これ」や「あれ」を使って

「こちらとあちらとどっちが恐ろしいか」を決めることはしたくないのです。

 

しかし、「何ひとつとして恐れることなどない」・・・ということだけは言いたいと思います。

しかし選択と決定は、いつでもその存在自身がするのです・・・ガイド】

 

さてでは、今度は良い創造の方はどうでしょう・・・、

ある暑い夏の日に、今年の冬にはスキーに行こうと想像し、

スキーをしている良い気分を感じた途端にそこにいたらどうでしょう・・・、

たとえ、良い方の創造だとしても、あなたはきっと混乱することでしょう。

 

あるいはこんなのは・・・?、

一日の仕事を終え、安らかな眠りの床につきながら、

あなたは何か楽しい事を考えようと思いました。

 

「そうだ、無人島の白い砂浜で思いっきりのんびりしたいな」・・・と想像し、

目を閉じたらその感覚と感情を味わって、あなたはとても良い気分になりました。

 

目を明けたらあなたはどこにいるでしょうか。

無人島の白い砂浜・・・です、今さっき眠ろうと思っていたのに・・・です。

 

どうするか・・・もしも戻りたければ、

「一日の仕事を終え、安らかな眠りの床につくところ・・・」を想像し、

その感情を味わうしかない・・・、ということになるでしょう。

 

こうしてあなたは、

取り消しの取り消しの取り消しの取り消しの取り消しの取り消しだけで、

一生を終えてしまうことでしょう。

 

さて、話が少しそれますが、「カルマ」については、多くの人は同じようなことをしています、

カルマがある」という、その人の信念は、カルマの存在を実現化させます。

 

そして、その存在がある一つの「カルマ」を取り消すために起こす何らかの行為は、

それが良くても悪くても、必ず次なる「カルマ」を創り出すことになるでしょう。

 

たとえば・・・前世「借り」がある誰かに、その「借り」を返せたとしても、

もう誰にも「借り」を創らない様に生きなければならないし、

もう誰かに「借り」を与えるようなこともしてはならない・・・、

 

そして、もしもまた何らかの「借り」を創ったり創られたりしてしまったら、

その「カルマ」解消のために、次の生でもまた奔走し続けなければならないのです。

 

ですから、その存在が「前世のカルマが今生に影響を及ぼす」という信念を変えない限り、

何千回・何万回生まれ変わったとしても、その度に、

取り消しの取り消しの取り消しの取り消しの取り消しの取り消しだけで、

一生を終えてゆく・・・ということになることでしょう。

 

何故なら、個々の存在たちは、たとえ目覚めていなくても、パワー在る創造主であり、

自分の信じていること・感じていること・フォーカスすること・決めたこと・などが

自分の現実として現れる宇宙に存在しているからです。

 

そして、実際には、そういうイシキ存在は多いのです。

もちろん、どんなゲームを選択しようとも、

時間は幻想であり、何度でもチャレンジできるし、何をどうしようとも神は完全に安全です。

 

しかし、もしも完全な存在ならば、また無分離ならば、

誰にも、何にも、「借りなど無い」のが真実・・・ではないでしょうか?

全体という海の一滴の水が、他の一滴の水に借りたり貸したりするのでしょうか?

 

だから、その存在が、「カルマがある」と決めているのは、

「自分は不完全な存在である」・・・「自分は全てと分離している」・・・と、

決めている・・・ということになるのではないでしょうか?

 

もちろん何を選択し、どう決定するかは、いつでもその存在自身がするのです。

・・・それが、本来神で在る全ての存在の自由意志であり、

その自由意志を使って、自分自身で選択と決定を続けてゲームを超えることが

自分という神」を現すために重要なのです。

 

誰かに代わって決めてもらう限り、あるいは他人や人類の社会イシキの選択や決定

自分自身では何も選ばず、何も決めることもせずに受け容れている限り、

ゲームは超えられないのです・・・何故ならそれは、自動的に

自分のパワーを手中にしない(エンパワーメントしない)・・・という選択になるからです。

(もちろん、自分で決めないことを、自分は決めているということにはなりますね)

 

ですから、あなたは何を・・・どれを・・・自分の真実としたいか

・・・いつでもイシキ的になって、自分自身で選択・決定し続けてください。

 


タイムラグで見えなかった創造力

 

さて実際には、「時の緩衝帯」タイムラグが、あなたを守ってくれていたので、

あなたは、様々な、あらゆる、どんな、感情体験も出来てきました。

 

あなたを含めた全ての存在は、こうして、あらゆる良いことや悪い事を

Imagine(想像すること)によって、Creation(創造)をしてきました。

 

気付いていてもいなくても、全てのイシキ存在は、The Creator(創造主・神)であり、

各々のその絶大なるCreative Power(創造力)によって、

それら全ては実現し、目の前に現れてきました。

 

あなたのいまいる世界・・・それは、自分のイメージやビジョン、想像や感情、

思考やコトバ、付け加えた情報や記憶や信念、想念や観念などの、

自己の内なる「イシキの在り方」・「イシキ状態」・が、

自分自身の目で、見ることのできるカタチとして、

 

(じつ)際に(げん)ずる世界(せかい)・・・、

実現(じつげん)する世界(せかい)・・・、

《現実世界》(げん)(じつ)(せかい)だから・・・。

 

そしてそこには、この「タイムラグ(時の緩衝帯)」があったが為に、

自分の想像や感情や信念やフォーカスや決定が、

それら全てを創造していたことが見えなかった・・・思い至らなかったのです。

あるいは「全てを自分の創造として受け容れることを、選択・決定してはこなかったのです。

 

現在、「思考が実現化する」・・・という情報を多くの人が受け容れ始めています。

それは「成功法則」や「実現法則」、「引き寄せの法則」などというコトバで伝えられています。

そして、どうやら本当にそうらしい・・・と人々は感じ始め、

自分自身の、より良き現実創造のために、その法則を使おうとし始めてもいます。

 

けれど、「自分の現実は自分の創造したもの」と感じ始めてはいても、

人類や地球上の全ての現実には距離を置いて考えていて、

自分が見て、感じ、体験する世界・・・その全てが、自分の創造である・・・とは、

まだ受け容れられない人も多いことでしょう。

 

しかし本当のこととは、あなたに起こること、あなたが見て感じる、その全ての全てが、

あなたのイメージやビジョン、想像や感情、思考やコトバ、情報や記憶や信念、

想念や観念といわれるものから、あなた自身が創造し続けているのです。

 

そして、あなたが見ているのは、あなただけのオリジナルな宇宙なのです。

あなたが創造をして隅々までも創り込み、同時に、あなた独自のイシキ・感覚・感じ方などで、

それらを現実として捉え、その現実に入り込むことで、様々な感情を感じ続けているものなのです。

 

受け容れがたい現実もあることでしょう・・・、

特にいま、そして、これから先のこの変容の時・・・、

時の加速と共に、物事はどんどんと露呈、放出され、多くの存在の死もあることでしょう・・・、

 

統合へと向かうとき、分離感や分断や分裂も大きく極へと振れるかもしれません・・・

あなたもまた、悲しみや苦しみ、恐怖や不安、を感じてしまうこともあるでしょう。

 

しかし、これまで私たちがお伝えしてきたように、本当は良いものも悪いものもない・・・、

全ては幻想で、ゲームで、幻で、夢であり、

・・・その目的とは、・・・あなた自身の体験と経験と感情を通して、

あなた自身のイシキを変容させてゆくこと・・・、

 

その・・・、あなたの内にこそ、全てのパワーがあり、

その・・・、あなたの内にこそ、源(全体・神)があり、

そして、あなたこそが、個であり全体(源・神)で在ることに目覚めてゆくこと・・・、

 

それを、あなた自身の体感として・・・、感じて・・・、再び「知る」ものと「成る」ために・・・、

全ては、あなた自身が創造している「シチュエーション」なのです。

 

たとえあなたが・・・、こんな現実を創造した覚えなどないと言っても・・・、

たとえあなたが・・・、こんなバージョンを選んだことに戸惑い、がっかりしていても・・・、

たとえあなたが・・・、「全てを自分の創造として受け容れること」など到底できなくても・・・、

 

それでも、なお・・・まずは、あなた自身が

「全てを自分の創造として受け容れる」

・・・ことを始めなければ、その創造を変えることは出来ない・・・のではないでしょうか?

 

そう・・・、「創造を変える」ためには、

まずは・・・「自分の創造」として「受け容れてゆく」ことです!!!

 

何故なら・・・自分の創ったものならば、自分で創り変えることが出来る・・・

しかし、誰かにやらされていたり、誰かに支配されているのだとしたら、

あなたには何も出来ないことになってしまう・・・、

 

だからこそ、「自分の創造」と決めることこそが、

自己のパワーを手中にすること「エンパワーメント」と成るのです。

 

そして、それら全てをネガティブと捉えているのは、

分離や極性といった、幻想の情報と感情・・・二元論(良い悪い)から見た

あなたのいま・ここでの、あるひとつの視点、あるひとつの捉え方にしか過ぎない・・・、

そこには、あなたが自分自身で見えなくしている素晴らしい贈り物があるかもしれない・・・、

 

実際には、起こることは始めから「良いこと」や「悪いこと」として起こっているのではなく、

それらは全て、各々の存在が、自分だけの感覚や記憶や捉え方を使って、

どう感じるかを決めている」・・・だけにしかすぎないのです。

 

起こること」は各々のその捉え方によって、良くも悪くも見えるでしょうし、

そしてまた、どう展開するかもわからない・・・、

だからこそ、ただ、いまは、そのように「見えている」・・・としてゆくことです。

・・・全てを、「ただ在る」ものやこと、として見てゆくことです。

 

そして、たとえ激動の嵐の中にあっても・・・、悲しみや恐怖に飲み込まれそうなときにも・・・、

本当のあなたは、「傷つくことなどありえない永遠の存在であることに、

それぞれの、永遠のいま・ここ で想いを巡らせ・・・、

 

起こること全てを、自分自身のこととして捉え、自分が置いたクリスタルとして見て、

あなたは、「ただ愛として見る」ことが出来るか・・・、

あなたは、「ただ愛として在る」ことが出来るか・・・、

 

その冒険と挑戦を、あなたはこの幻想の中で体験することを選択し、

永遠のいま・ここ」でやり続けているのです。

 

この・・・「タイムラグ(時の緩衝帯)」のために、これまでは見えていなかった、

自分に起こる全てを「自己の創造として受け容れる」ことを通して・・・、

 

それらを手放し変容させる・・・ことによって、

「分離感」=「不協和音」「無分離」=「和音」へと変容させ、

やがて、いつか、それら全てを、愛することが出来るようになり、

それによって、あなたはまた、次なる「大いなる変容」へと、誘われ続けてゆくのです。

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共に、ただ・・・手放して

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない、永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・「こだまなくらし」サークルのヒビキ

HOME

 

inserted by FC2 system