チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」

「こだまなくらしサークル」のヒビキ



評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第31章

永遠の「いま」C

壮大なる自由意志


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源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

 

前回、現実世界のあなたの体験とは・・・、

分離幻想」によって、あなたと別に見えている誰かや何かとの、

様々なカタチの「統合フィーリング」(統合感を、

この永遠の「いま」に、味わい続けることである・・・とお伝えして来ました。

 

(こだま・・・まだよく見えませんが、

統合感分離感は、相対するものでは無いようです

・・・そこで、新たなコトバを創り、「統合感」を「統合フィーリング」としました、

私たちは常に、この「統合フィーリング」を得ようとして、さらに「分離幻想」を創り続け、

「分離」を細分化し「分離感」を感じる・・・というようなことのようです)

 

その「統合フィーリング」は、あなたの日々の暮らしの中で、

一瞬一瞬、過ぎ去ってしまうかもしれないけれど、

あなたを本質の自己(源)へと導いてくれることでしょう。

 

だからこそ、「好みの創造」を含めた、すべての体験に於いて、

あなたが感じる様々な感情の、何にも、誰にも、囚われず、留まらず・・・、

手放し続け・・・、流し続けて、次なる展開へと自己を開き、

永遠の「いま」に、いつも居続けることです。

 

あなたの内なる源で、この永遠の「いま」「統合フィーリング」を、

一瞬一瞬・感じ続けてゆくことが、次の大いなる変容へと繋がってゆくのです。

 

「統合フィーリング」「ヒビキ」「共鳴」「和音」として、

もう、すでに、ずっと、あなたにやってきていたのです。

 

まず始めは、あなたの感覚を全て使い、自分の内にイシキを向けて、

・・・「耳をすます」「フォーカスして見る」「嗅覚を研ぎ澄ます」「味わおうとする」「触れようとする」こと・・・、

そして、その、すでにある、あなたの内成るフィーリング・・・

源のヒビキを・・・「ただ・・・感じる」ことを、いつの時も忘れないでいてください。

 


幻の「過去」を「いま」変える


好みの創造」でもお伝えしてきたように、

あなたの「未来」は、あなたが「いま」・・・創るものです。

そしてまた、幻想である過去も「いま」・・・創り変えられる・・・のです。

 

それは、あなたのイシキの内に「記憶感情」として在り続けているだけで、

実体のない幻想の中の幻想なのです。

もしも、あなたにとってもう何の役にも立たない、

この「過去」に対する、この「記憶感情」が在るのだとしたら、

それは、「いま」・・・変容させてゆきましょう

 

あなたの「過去」のすべては、ただ、そう在るべくして在ったのだ・・・、

あなたの「過去」のすべては、それはそれで完全であったのだ・・・、という、

あなたの胸の内に修める納得感、あなた自身で「腑に落ちる」フィーリングに変えてゆくのです。

お伝えした様々なワークを使うことで、あなたには「いま」それが出来るのです。

 

あなたがその「記憶感情を変えてゆくことによって、

全ては、いま・ここの「あなた」成りゆく為にもたらされたこと・・・、

全ては、あなたがそこから何かを得るために、

源(全体・神)が、あなたの体験と成って見せてくれた「愛で在った」ことを

あなた自身でわかる・・・見る・・・知ることが出来るのです。

 

あなたがこれまでどんな風に生きてきたとしても・・・、

たとえ何をしたとしても・・・、あるいは何もしてこなかったとしても・・・、

あなたが罪悪感を持つ、あるいは後悔をする必要など、どこにもないのです。

 

それは・・・その道があなたをここまで連れてきてくれたから・・・です。

そしてあなたはまだ、「わたし」という「イシキ」を持って、いま・ここ にいる

・・・大切なことは、それだけなのではないのでしょうか?

 

全ては、内なる「本質の自己」(源)を求める旅の過程・・・、

イシキの上昇の為の、イシキの下降にしか過ぎないのです。

それも、あらゆるあまねく波動の中から、ただその波動を選択していただけにしか過ぎないのです。

 

あなたの波動は、低くなってしまったわけでも、これから高くなるわけでもない・・・

全てはあなたの内にあり、ただ、その時点に於いては、

幻想体験によって「分離感情」を選んだだけなのです。

 

そして、無限の「見方」「捉え方」の中から、

あるひとつの「イミ付け」を選択していただけであり、

それは、その時点での「イミ付け」にしか過ぎないのです。

あなたが付けるイミ付けは、様々な情報と記憶・・・そして幻想の中で付けた「イミ付け」です。

 

実在とは「ただ在る」のであり・・・「ただ在る」のですからイミなど存在しないのです。

(あらゆるイミを全て内包しているともいえる・・・ゼロで在り全で在る)

この世界・・・そして宇宙全てには、「決まりがついた」ものやことなど何一つない、

その時の自分の選択と決定によって、その無限の中から、「ある決まりを付けている」だけであり、

だからこそ、「真実はあなたが決めるもの」であり、「イミ付けはあなたが決めるもの」なのです。

 

それは、本当は良くも悪くも無く、ただ「そうであった」・・・ということにしか過ぎません。

そして、その選択と決定は、この「いま」に・・・どのようにも変えることが出来るのですし、

変えてしまっていい・・・だから、あなたにとって役立つものに変えることです。

 

しかし実際には、この幻の「過去」の、罪悪感や後悔に引っかかっている人もいることでしょう。

それでは、前述したようにイシキがタイムトラベルしていますから、

永遠の「いま」を十全に生きられない・使えない・・・ことになるでしょう。

 

では・・・もしも後悔を手放すと・・・、あるいは、罪悪感を手放すと・・・、

あるいは、自分がした事、してこなかった事を許すと・・・、

あるいは、自分を罰することを止めると・・・、一体何が問題なのでしょう?

 

それは、そういったものがこれから先の自分への「戒め」になる・・・、

あるいは、「戒め」と言わないまでも、後悔や罪悪感を持ち続ける事で、

もうそういう事をしたくないと確認ができる、わかる・・・、

などと感じている人もあるいはいるかもしれません。(・・・もちろん人によって様々ですが)

 

そして、もしも本当に、後悔や罪悪感を手放しても良いのだとして・・・、

それがわかったとして・・・、また手放せたとして・・・、

これから先、本当に何をしても良いのか・・・、何をしてもかまわないのか・・・、

 

そうなってしまうと、自分も人類も箍(たが)が外れて、

大変な事になってしまうのではないか・・・、

と不安になる・・・ことなどでしょうか。(・・・これも人によって様々ですが)

 

さて、これまで私たちのお伝えして来たことを読み進んでこられたあなたは、

もうこれらの問題の鍵「キー」が見えてきたかもしれません。

 

まず、時間は幻であって、本当には永遠の「いま」しかなくて・・・、

その「いま」に重なっている「過去」・・・、

その「過去」の体験による感情を手放さずに、

いま」感じて、「いま」抱きしめているのは、

他でもない「いま」の自分自身であり・・・、

 

その事によって、「いま」に重なる「未来」には、

そういった状況が拡大して繰り返される・・・、ということになりますね?

 

後悔や罪悪感を持ち続ける事で、もうそういう事をしたくないと確認し続けることで、

そのことにフォーカスしていることになり・・・、フォーカスは選択なのですから、

またそういう事が、(・・・たとえ違うカタチだとしても本質的には同じモノやコトが)

その人の前に何度も何度も現れてくる・・・、というわけです。

 

何故なら人は、気付いていなくても偉大なる創造主で、

何でも「いま」自分が感じている、想い・感情・想念などが、

たとえ心の中に隠してはいても、誰にも知られていないと思ってはいても

それが見えるカタチで、実際に現れる世界・・・現実世界にいるのだから・・・。

 

そしてまた「もしも本当に、手放しても良いのだとして、

それがわかったとして、また手放せたとして、

そうなってしまうと、自分も人類も箍(たが)が外れて、

大変な事になってしまうのではないか」・・・、ということに関しては・・・、

 

しなければならないことは何もなく・・・、してはならないことも何もない・・・、

しかし、人が人にすることは全て自分にすること・・・、

 

どんな行為も自分にしていること・・・すべては自分にしていること・・・になる、

このことを思い巡らすならば・・・、全てに於いて・・・、

「あなたが自分にして欲しいと思うことを人にせよ」・・ということになる、

 

それは、道徳が、世の中が、宗教が、グルが、先生が、親が、皆が、そう言うからではなく・・・、

実在・実相として・・・、科学として・・・、真実として、・・・それしかありえない、

実に、まったく、絶対に、それしかありえない!」・・・のです。

 

何故なら全体はひとつで、分離は幻想であり、

故に、あなたは私で、私はあなたなのだから・・・、

また、全体として見るとき、あなたでないものはなく、

全てはスガタ・カタチを変えたあなた自身でしかないのだから・・・。

 

だからあなたが、もしも良いモノだけを欲しければ・・・、そして受け取りたければ・・・、

たとえ、どんな風に見えていようとも、この永遠の「いま」に、

あなたにとっての良いモノだけを送り出すこと、・・・・ただ単に、それだけのことなのです。

 


壮大なる自由意志


では「個」の体験として、見たくもない、語りたくもないような、

支配や差別や残虐さえも許されるのか・・・?

このことに関しては・・・、たとえ「議論沸騰」があるとしても、

「許されないものやコトなどありえない」・・・とお伝えしたいと思います。

 

・・・もちろん、その・・・許されること・・・には、

そのことに関わった存在のイシキの大きな変容が必要となるかもしれません。

しかしそれは、宇宙が、全体が、源が、神が、あるいは他の人が許さないからではなく、

あくまでもその人という神が、己自身の後悔や罪悪感などによって、

変容の時至るまで、自分自身を縛り続ける・・・ということなのです。

 

この宇宙は、そして全ては、壮大なる自由意志の世界です。

たとえそれが、「これは論外、認められない、無理・・・」と言うようなひどい事であったとしても

もしも仮に、何かをやってはいけない・・・、ということがあるとすれば、

・・・その時点で、全ては自由な冒険ではなくなってしまう、

そしてその時点で、全体である「源」は、「ただ在る」ことができなくなってしまう、

 

ただ在る」・・・とは、一切の限定もワクもない状態、

・・・「無限」ということを表現する為の「コトバ」です。

そして、無限=限りが無い・・・というのは、

そのコトバ通り、一点の限定も存在しない・・・ということなのです。

 

もしも、全体の中のその一部にでも限定があれば、全体は変質してしまい、

そしてまた、実在・実相に於いては無分離の、源(全体・神)そのものでもある、

体験する私たち「個」・・・全ての体験する神々・・・あなたや私たち兄弟姉妹・・・は、

その時点で、存在することすら出来なくなることでしょう。

 

故に・・・、「壮大なる自由意志」

それこそが、、あなたのいる次元を含めた、全ての宇宙の

全体が個に、始まりの時から久遠に約束した、無限愛なのです。

 

そしてまた、これまであなたは、あらゆる「悪」などを、

みんなも一緒に見ているのだから・・・、世間で起きていることだから・・・、

自分だけが見る・味わう体験ではない・・・、と思ってきたかもしれない、

 

けれど、実はその「悪」は、あなたが見るために置かれている、

あなたが、それを「悪」と審判しなくなるまで、

あなたが、見て、聞いて、それを「ただ在る」モノとして見られるように成るまで、

そうやって、数々の「悪」が、スガタを変え、カタチを変え、次々とあなたの前に現れてくる、

 

それはまるで、テストのように(・・・だけど置いたのはあなた)

「これはどう?じゃあこんなのは?こんな感じは?これはいかが?・・・」

そしてあなたはこれまで、見事にそれに引っかかり続けてきたのです。

それら全てに、評価・判断・審判などの抵抗感を「感じる」ことによって・・・。

 

何故なら、あなたは自己のオリジナル認識宇宙で、

あらゆる体験を通じて、自己のイシキの全ての限定をはずし、

本質の自己(源)との統合の体感を得ようとしているのだから・・・、

 

そこで、あなたがイシキに付け加えてきた、あらゆる限定が見えるカタチで現れ続け、

あなたがそれらへの評価・判断・審判などを手放さない限り、それはずっと続くのです。

それは、あなたのイシキに付け加えたものを見る鏡なのです。

 

だから、あなたが「悪」と見る限り、「悪」はあなたの世界に存在する、

あなたが評価・判断・審判などの抵抗感を全て無くしてしまうまで・・・、

あなたには「悪」が確かに感じられる・・・、

そしてまた、あなたが「悪」への評価・判断・審判を下す限りそれはまた続く・・・、

こうして輪は元に還り、堂々巡りが続いてゆくのです。

 

しかし、私たちがお伝えしたように、源(全体・神)は・・・、永遠に「ただ在る」存在として、

あなたの体験の舞台やシチュエーション、ものや、ことや、人々、

そして、あなたが見ている世界、その全てに成り続けています。

審判も無く、法も無い、そして、評価・判断・批判もなく、

あなたの望む全てに成り続ける、その源(全体・神)の無限愛・・・、

 

そして、その源は永遠にあなたの内に在り続け、分離は幻想で、

あなたは、体験する神で在ると同時に、その源でも在った

あなたがもしもその源との再統合・アセンションを選択し、自己体感したいのであれば、

あなた自身が源そのものとして、全てを見るようにならなければならない・・・、

 

世界が人類が人々が、たとえ、どのような体験・経験を選んでいても、

あなた自身は、評価と判断・審判などを全て変容させ、

源のように・・・、源として・・・、神のように・・・、神として・・・、

全てを「ただ在る」ものとして、見るようになってゆかなければ、

あなたの内成る源・・・、内成る神を現すことは出来ない・・・、

 

何故なら、それは波動がまったく異なるから・・・、

波動が異なれば、共鳴はしないから・・・、

共鳴しなければ、あなたがそれを感じることは、決して出来ないから・・・、

感じることが出来なければ、「すでにそうで在る」ことを知り得ないから・・・、

 

そして、「すでにそうで在る」ことを知るには、あなた自身で知るしかない、

無理やり、無限愛を表現しようとしても、そこにはきっと無理があるだろう・・・

・・・だからこそ、「いま・・・感じること」にイシキ的になり、内成る源のヒビキを指針にして

日々刻々・・・「分離感」を自分で波動調整・波動変換してゆく・・・

そして、「すでにそうで在る」ことを、自分自身で体感してゆくこと・・・、です。

 

さて、実際には人を殺傷したことのない存在は一人たりともいません。

もちろん、前世を持ち出せば、それは全ての存在がそうなのですが、

この「いま」の日々刻々にも、人はそれをやり続けているのです。

 

誰かや何かを断罪するとき、実はその人と同じことをすることになっています。

そしてまた、想いの中で他を断罪し、恨みや復讐心を抱いたのであれば、

その存在が想った途端に、全体は「そう成る」のですから、

それは「すでに成された」ことになるのです。

 

ただ・・・「タイムラグ」に抜け落ちて、それが実体験とならなかっただけなのです。

もしも「タイムラグ」が無かったら、誰もが人を殺傷し続けることになってしまうでしょう。

あなたは、断罪や恨みや復讐心が「タイムラグに抜け落ちた」ことによって、

大量殺人鬼にならずにすんでいるだけなのです。

こうして「タイムラグ」は、あなただけではなく、あなたの周りの人も守っていたのです。

 

そして、実際に行った人は、それを想い続けることによって自分の体験としたのです。

そして、この先ずっと、その体験を通して何かを「わかってゆく」のです。

それには、イシキの変容の為の長い長い年月も必要となるでしょう。

その変容の時至るまで、自分自身を縛り続けることにもなるでしょう。

 

また、被害を受けた存在も、そういった波動を選択し続けたため、

あるいは何かを「実体験としてわかる」ため、あるいは周りの存在との「約束のため」、

あるいは、自分のイシキの内奥の浄化のため・・・などなど、

様々な理由によって、そうすることを自ら選択しているのです。

 

何故なら本当は、誰もが偉大なる神であり、たとえ「いま」どんな体験を選択していようとも、

その神を忘れ去っては、いくつもの体感を通じ、

「自分という神」を見つける旅の途中にいるのです。

それは、誰もが、必ず、かつて通ってきた道なのです。

そして、あなたもまた、通ってきた道に違いないのです。

 

また、「悪」については次のような観念が見受けられます。

それは・・・、誰かが「悪」だと言わなければ、言い続けなければ、「悪」は無くならない・・・、

糾弾しなければ、悪を排除できない・・・、

「悪」を「戒め」として忘れないことで、もう二度と起こさなくなる・・・、という観念です。

 

しかしこれは、幻想の中のトリック・パラドックス、である・・・ということが、

あなたにも、もうおわかりになるのではないでしょうか。

 

抵抗し、押しやろうとすればするほど、糾弾すればするほど、

それは又、本質的には同じモノが、違うスガタ・カタチで現れ続ける・・・、

まるで「もぐらたたきゲーム」・・・それも拡大し続けるという「おまけ」までついてくるのです。

 

実に人類はずっとそれをやってきた・・・、そう・・・、

人類は、見事にそれに引っかかり続けてきたのです。

それら全てに、評価・判断・審判などの抵抗感を「感じる」ことによって・・・。

 

あなたや人類が「悪」と言われるものにイシキを集中し、それに抵抗をし続ける限り、

それはフォーカスでありフォーカスは選択となって、

あなたや人類の体験・経験として生み出され続けるのです。

 

繰り返してはいけない歴史に集中し、(・・・無視しろと言っているのではなく、

本当に繰り返したくないのなら理想とする在り方を描くのです・・・)

あってはならない暴力や野蛮を糾弾することでその存続を保ち続けてきた、

(・・・暴力や野蛮を良いと言っているのではなく、

本当に無くしたいのなら、愛ある在り方を示すのです・・・)

 

戦争反対と抵抗し続けることで、今度は又違ったカタチで、

結局はどうしても戦わなければならない状況に追い込まれてきた・・・、

(・・・戦争に賛成だと言っているのではなく、

本当に止めたいのなら平和だけを想うのです・・・)

 

それは何故だろう・・・?

誰もがイヤだと思い、いけないことだと知っているのに・・・、

何故そういったことが起こり続けるのだろう・・・?何故無くならないのだろう・・・?

 

それは、あなたと人類は全て、気付いていなくても偉大なる創造主で、

何でも「いま」自分が持っている、想い・感情・想念が、

たとえ心の中に隠していても、誰にも知られていないと思っていても

それが見えるカタチで、実際に現れる・・・現実世界にいるのだから、

・・・ということになるでしょう。

 

・・・とは言っても、どうか安心して欲しいのです・・・、

誰も傷つくことなどありえない、誰も死んでなどいない・・・のです。

(このことについては、今後詳しくお伝えしたいと思います)

 

さて、あなたと人類が、この堂々巡りから抜け出すには、

たとえ、あなたひとりであっても、全てを自分自身のこととして捉え始めること・・・です。

 

全てを、あなたのオリジナル認識宇宙の中で起きていることとして捉え、

それをあなたが手放すとき、それがあなた自身の変容となり、

全体の変容へと繋がる・・・と知ることです。

 

そして、あなたが全てを、「ただ在る」もの・・として見られるように成った時、

あなたの「源」としての限りない自由は甦り、

あなたと全体(オリジナル認識宇宙)は、次の大いなる変容へと誘われてゆくのです。

 

あなた一人の宇宙、あなた一人の道、あなた一人で立つ人(大人)に成る、

そして何がどうあろうとも、たとえそんな風に見えなくても、誰のせいにもしない、

誰も、何も、責めない、許しと愛の旅・・・、

 

それは、まるで孤独な遠い遥かな道、先の見えない崖に見えることもあるでしょう。

そんな苦労をするよりは、たとえウツシヨ(現世・幻の世)とはいえ、

風に吹かれて、生きている間だけこの世を楽しめればいい・・・、

 

酷い奴には酷い奴だとはっきり言い、断罪も恨みも憎しみも出し切って、

喜んだり悲しんだりしながら、生まれて生きて100年かからずに死んで、

年をとったら「冥土の土産」にあちこち見学して、あの世とやらに行って、

もしもまたこの世に来られるのなら、また同じようにするしかない、

どうせ、人間とはそんなものだ・・・

 

そうやってこれまでの長い間・・・、ああ、何と多くの光のイシキ存在が

自らが神そのもの・・・全体そのもの・・・源そのもの・・・で在ることを忘れ去って

輪廻の輪に自らを委ね続けてきたことでしょう。

 

しかし、いま、人類は大いなる決心の元、自分のお尻に火をつけてでも、

それによって目覚めようと、あらゆる困難を用意しているのです。

この混乱の世界を見て、あなたはそんな風に感じないでしょうか・・・。

 

さあ、自分の内なる「フィーリング」だけを頼りに、

たった一人で乗り越える数々の試練や困難、苦悩、そして、

悪を許し、審判を手放し、安定にも甘んじることもなく・・・、

 

次なる展開へと、手放し、手放し、手放し続け、変容し続ける・・・、

保証も無く、どこに行くのかも見えない・・・、何がもたらされるのかも判らない・・・、

 

けれどそれを歩んでゆくと、やがて全てが待っている、ことが見えてくる・・・、

そして、常に、いつも、全てに守られ、愛されていたことが見えてくる・・・、

全てに囲まれ、全てと一緒だったことが見えてくる・・・、

 

それは、目の前の幻想のベールが取り払われて、

「なぁんだ!そうだったのか!」と納得が出来た時・・・、

それは、もうすぐそこ、・・・あなたが手放し、変容し始めると、

・・・あなたにもそれが見えてくるのです。

 

そして、それは、結果に対する保証を外に求めるのを・・・もう止めて、

証拠探しや論証を一切合切・・・もう止めて、

自分の内なる一点の光だけを見つめ、勇気を出して飛び込んだとき・・・、

始めて・・・、崖など存在さえしなかったことがわかり、どこまでも続く喜びが見えてくるのです。

 

これまでもずっと、人類全体が、世間が、多くの人々が、そう言ったからといって、

あなたもそう思う、そうしてくる必要はなかった、

たとえみんなの意見に同意してきただけだ・・・と言っても

結局のところ、それを受け容れ、人や世界を審判してきたのは、自分自身であったことを認め・・・、

 

起こること全てを、ただ光として見る、ただ愛として見る、

そして、「ただ在る」ものとして見る・・・・、

 

実に、本当は、それらは、その全ての舞台とシチュエーションと成り続けている

「源」の愛なるスガタでしかないのだから・・・。

そして、あなたは、その「源」そのもの・・・だったのだから。

 

それがあなたと全体の、再統合・・・アセンション・・・、の道なのです。


それは、まさに・・・、「いま」!


さて、この「壮大なる自由意志」の元で、

繰り広げられてきた「悪く見えるモノやコト」・・・、ですが、

私たちはそれらに対して・・・、「何も言ってはいけない」「何もしてはいけない」

「何をされても逆らうな」・・・と、言っているわけではありません。

 

これらのコトについてお伝えして来たのは、

あなたの外界の「悪く見えるモノやコト」・・・支配や差別や残虐に対して持ち続ける、

・・・あなたの(「いま」感じている)イヤな気分は、

(「いま」に重なる)あなたの明日(「未来」)に影響する(望まないものを生み出す)・・・

・・・ということを、知っていただきたいと思うからでした。

 

ですから、どんな場面でも自分自身を犠牲にしない・・・、

自分の感じ方を自分で選ぶ、自分で決める・・・、

「イヤな気分で自分の明日に影響させない・・・と、まずは選択・決定することです。

 

それは、いつもこの、永遠の「いま」の「感じていること」「自分の気分」に気付いていることです。

抵抗があり、イヤな気分があるのなら、感じられるのなら、

まずその気分を「いま」、真っ先に開放し、手放し、変容させてしまうことです。

 

「過去」のことであれ、「未来」のことであれ、それが「いつの」「何の」「誰の」ことであれ、

それを「わたし」が感じているのは、

この永遠の「いま」なのだ

 

そしてそう感じているのは、他の誰でも無い・・・、

わたし」という「イシキなのだ

・・・という事にちゃんと気づいていることです。

 

それを感じている、あなたの永遠の「いま」に、しっかりとイシキ的でいることです。

無イシキこそが、これまで、あなたが望まない多くの「未来」を、

あなたの「いま」に運んできた・・・と真に知ることです。

 

さて、この・・・「いま感じていること」をイシキし始めると、

始めは自分の「感情」を見張っていなければいけない気がするかもしれません。

けれど、実際にはそんなに神経質になる必要などありません。

 

ただリラックスして、いい気分でいることに慣れること・・・、

内なる源を感じ続けること・・・それを自分に許すことです。

それを当たり前の習慣にして、それと違ったものがやってきたら、ちゃんと気付くことです。

 

それは、見張ってなどいなくても必ず気付けるのです。

何故なら、あなたはちゃんとイヤな気分になるのですから・・・。

そしてその時に、そのやってきた気分を分析もせず判断もせずに、

それを開放し、変容するチャンスと捉え、ただ手放すこと、手放し続けることです。

 

すると、始めはイヤな気分でいることが、習慣になってしまっていた人でさえ

いつもラクにいられるようになる・・・、いつのまにかリラックスし、

いい気分でいるのが当たり前になって来る・・・、

 

すると、あんなイヤな気分でばかりいた自分は、

どこに行ってしまったのか不思議な気さえする・・・、

かつての自分は、まるで別人のような気さえして来るのです。

(・・・そして実際にあなたは別の人に成っているのです)

 

また、「イヤな気分でいることが、習慣になってしまっている人」、

「自分が「いま」どんな気分かさえわからなくなってしまっている人」、

あるいは、「イヤな気分の堂々巡りの輪から抜け出られなくなっている人」、

「どこから手放していったらいいのか、皆目わからなくなっている人」、もいるかもしれません。

 

それは、これまで「感情」というものを自分と同化して、

長い間、その「感情」に埋没して生きてきたからなのですが・・・、

しかし、これはもう、「いま」感じていることを一つずつ、ちゃんと見て、

開放すること、手放すこと、変容し続けることを、まずは始めることです。

 

「いま・いま・いま」の自分の「感じていること」に気付いて

こんがらがってもつれた紐を丹念にほぐしてゆく時のように、

自分でワークを続け、それを変え続けてゆくことです。

 

では、それはいつ始めるのでしょうか?

それは、まさに・・・、「いま」!★!★!★・・・ということになるでしょう。

 


「責める」は、あなたを責める


あなたが、何かや誰かを「責める」とき、

それは必ず、とてもイヤな気分になってくるはずです。

 

それは何故かと言えば、外に見えている誰かや何かを「責める」のは、

自分を責めて(苛んで)いる・・・のと、まったく同じだからです。

(・・・実際にはそれ以上のこともあります)

 

何故なら全体は一つで、分離は幻想であり、

故に、あなたは彼(その誰かや何か)であり、

彼(その誰かや何か)は、あなたなのだから・・・、

 

全体として見るとき、あなたでないものはなく、

全てはスガタ・カタチを変えたあなた自身でしかないのだから・・・。

 

ですから、あなたが外に見えている何かや誰かを責めれば・・・、

全ては自分なので、自分を責めているのとまったく同じになり・・・、

その波動はどんどんと増幅されてあなたに還り・・・、

 

あなたは、もっとイヤな気分になって・・・、

その波動はどんどんと増幅されてあなたに還り・・・、エンドレス、

こうして、外に見えている何かや誰かを責め続ける、終わりなき輪は続き・・・、

外に責めを向けているつもりが、いつの間にか自分を責めている

自分自身を攻撃し犠牲にし続けている・・・、ということになってしまうのです。

 

これでは解決どころか、状況をもっと混乱させていることになるのではないでしょうか?

まさに世界は、人類は、人々は、そして、あなたは・・・、

こういったことを、やっては来なかったでしょうか?

 

そして、それは、その人がどんなに正しくても、たとえ100%正しくても

どんなに、どんなに、どんなに、その外に見えている何かや誰かが

とんでもない間違い、許されない行為を犯してしまったとしても、そうなってしまうのです。

 

それは「責める」・・・という、あなたが感じるその感情・気持ちの、

波動こそが問題なのであって、

何かを言ったり、したりしてはいけない・・・、というイミではないことを

理解していただきたいと思います。

 

自分が誰かや何かを「責める」・・・、その気持ち・・・波動を変えてゆかなければ、

まさに、「責める」は、あなたを責める・・・ことになってしまうのです。

(外を責める気持ちが自分自身を攻撃する・・・のです)

 

多くの人が、自分が困難に遭うと、外の何かや誰かを責めます。

それは、憤りの持って行き場が、そこにしかない・・・と決めているからです。

中には誰が見ても、まったくもって、致し方のない憤り・責め・・・と見えることもあることでしょう。

しかし、たとえそうであっても・・・、たとえそう見えた、そう思えたとしても・・・、

 

外を「責める」ことは、結局は自分を「責める」ことなのですから・・・、

その時あなたは、自分のイシキを低い波動へと押しやり・・・、

故にあなたのカラダの細胞は、低い波動と共鳴し・・・、

 

あなたのイシキは、本質の自己で在る「源」の波動から離れ・・・、

あなたには、「源」の波動とは共鳴していない「不協和音」が感じられ・・・、

故に、あなたの内なる「源」との「統合フィーリング」を感じられず、

イシキは「分離感情」に埋没し・・・、

 

あなたの「いま」には、望まない現実創造の波動が共鳴し・・・、

故に、あなたの「いま」に重なる「未来」には、望まない現実創造が拡大されて出現し・・・、

 

また、あなたの「いま」のカラダの細胞へは、不調和の波動が送り出され・・・、

故に、あなたの「いま」に重なる「未来」には、不調和の身体状態が現れ・・・

こうして、エンドレスに、その不調和の波動を増幅させ続けてゆくのです。

 

ですから、まず何であれ、「外を責めることは自分を責めること」知ることです。

その上で、まずは自分が感じる、「責める」ことや「憤り」などを始めとした、

イヤな気持ちを全て手放し、解放する、変容させる、波動調整・波動変換し続けることです。

 

イヤな感情の波動を全て手放してから、その問題に対することです。

その上で、言いたいと感じることを言い、したいと感じることをする・・・、

立ち去りたければ、その関係から立ち去る・・・、

「過去」をあげつらい、とやかく言うのではなく、

こうして欲しい、こうであって欲しい・・・、と言うのです。

 

問題にではなく解決策だけにフォーカスする・・・、

それは必ず解決されるのだと知る・・・、そのビジョンだけを保ち続ける・・・、のです。

 

そしてもしも、言っている場に於いても、まだ責める気持ちになってしまうのであれば、

それはただ単にもっと解放をするために、「いま」やってきているだけなのだと知り、

「いま」気付いた時点で、さらに又それを解放し、手放す・・・、

 

どんな瞬間にも、「いま・ここ」の自分の感じ方にイシキ的に在ることにより、

どんな場面にも、決して「いま・ここ」の、自分自身を犠牲にしない・・・、

内なる「源」のヒビキを感じ続ける・・・、と決めることです。

 

さてでは、これらの感情を解放する(手放す)と、どんな変化が現れてくるのでしょう。

それは、問題が問題と見えなくなる・・・、問題と思えなくなる・・・、

問題や周りが徐々に、あるいは劇的に変化する、環境が変わってゆく

・・・などとして現れて来ることでしょう。

 

あるいは、「こう在って欲しい」「こうすればいいのだ」といった、

指針や解決策、インスピレーションも見えてくるものです。

 

さてここで、どういうわけか、「もしも解放してしまったら、もう文句が言えなくなる」・・・

という気持ちが、内に多少なりとも在る人が、あるいはいるかもしれません。

これは実に、不思議で面白いことなのですが、「鬼の首を取ったような気分」に浸るのは、

人々にとって、何かそこから立ち去りがたい誘惑が在るようなのです。

 

実際には、自分自身を犠牲にしているにも関わらず、

いまの所、そんなコトが在ることを、知ろうともしていないので・・・、

したがって、それは決して見えないので・・・、

 

そして、その・・・「鬼の首を取ったような気分」に浸ること・・・には、

誰もが惹かれる感じのする、何かしら誘惑めいたモノが在るので・・・、

その「優越感」のようなものによる抗議や非難からは、立ち去りがたい感じがあるのでしょう。

 

そしてまた、「相手が絶対に間違っている」「言語道断である」

「許されない」「あってはならない」・・・、などと確信すればするほど、

それはこの、「鬼の首を取ったような気分」に浸れるチャンスに思えてくるのです。

 

しかし、それはまるで・・・、

「左足より早く一歩前に踏み出したと威張っている右足」、あるいは、

「左足が躓いたので転んだ・・・と責める右足」のようなものなのです。

 

何故なら、全体は一つで、分離は幻想であり、

あなたという右足は、彼(その誰かや何か)という左足で、

彼(その誰かや何か)という左足は、あなたという右足なのだから・・・、

 

全体として見るとき、あなたでないものはなく、

右足と左足は、同じひとつのカラダであって、

全てはスガタ・カタチを変えたあなた自身でしかないのだから・・・。

 

とにかくこの、イヤな気分の内に、イヤな気分のままで、イヤな気分を何とかしたいと

(実は、それは出来ないにもかかわらず・・・)外に見える誰かや何かに向かって、

イヤな気分を吐き出そうと、せいぜい言っておける内に、せいぜい言いたいことを、

せいぜい言っておかなければ損をする・・・、

 

そして、もしも始めよりも、さらにイヤな気分になったとしても、

そんなことには、もう構っていられないほど、ものすごくイヤな気分だ、

ものすごく、ものすごく、ものすごく、イヤな気分だ・・・、

 

だからまた「鬼の首を取ったような気分」に浸って、

誰かや何かを攻撃したい(責めたい)・・・、などというような生き方は、

自分自身を犠牲にすることに成るのです。

 

それは、世界や人類や社会・・・その悪と言われるものを責める時も全く同じなのです。

ですから、自分が「左足より早く一歩前に踏み出したと威張っている右足」・・・あるいは、

「左足が躓いたので転んだ・・・と責める右足」になっていないか、俯瞰する目を持つことです。

 

もちろん「壮大なる自由意志なのですから、それはどうあろうともかまわない・・・、

それでもなお、「責める」は、あなたを責める のです。

 

何故なら、本当のこととは・・・、あなたの外に見えるモノ、その全ての全ては・・・、

あなた自身が「いま」イシキの内に持っている・・・、

観念・想念・イシキの在り方を見るための・・・、

まさに、幻想」として置かれた鏡・・でしかないのですから・・・。

 

自分が映る鏡を責める・・・ことの「無イミさ」は、誰もがわかることでしょう。

現実の世界で、もしも鏡に向かって「バカ」だの「酷い」だの「悪い」だの

「けしからん」などと責めるならば、それは即効、自分自身に還って来るからです。

 

しかし、この現実世界の中で、自分自身が「いま」内に持っている観念・想念・イシキの在り方が

見えるカタチで現れているとは、人は気付きにくいものです。

もちろん、それは様々な幻想が在るからです。

 

そこで、他を糾弾・非難・批判し続けてきたのですが、

それを、まずは止め、その糾弾・非難・批判したくなる自分自身の

「感じていること」の方を変容させ続けてゆくことが、

あなたの内成る神を現わしてゆくことに成るのです。

 

そして実は、全てはそのために起きている・・・

この「幻想」として置かれた鏡・・・投影宇宙が、実際には

あなたの内なる神を現すこと、アセンション、再統合に役立ってゆくのです。

(これは今後お伝えしましょう)

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共に、ただ・・・手放して、

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない、永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・「こだまなくらしサークル」のヒビキ

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