チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」

「こだまなくらしサークル」のヒビキ



評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第36章


死を超えるC

アセンションした人々


YouTube録音動画

 


源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

 

「再統合・アセンション」とは・・・、「あなたという個を体験するイシキ存在が、

この現実世界(第一イシキ層)から死を超え(バイパス・迂回して)

第七イシキ層へイシキを移行することである」・・・.と伝えてきた

 

この「第七イシキ層」は、これまで「天界・神霊界・高級霊界」などと言われてきたが、

その意味するところは、「フツウ」の人間とかけ離れた

「特別」な存在・・・「神々の世界」だった

 

しかし、あなたこそが神だったのだから、

神々の世界」こそが、あなた本来のイシキの場であったのだ

・・・故に、「再統合・アセンション」とは・・・、

「イシキの回帰」・・・と言えるだろう

 

そして、あなたは、ただ・・・幻想でそれが見えないだけ・・・にすぎず、

実は自分がそういう存在だと、すでに知っている・・・、

 

故に、「再統合・アセンション」とは・・・

すでに自分が知っていることを、

再び知る過程・・・にしか過ぎない、

 

また「再統合・アセンション」は、いま始めて行われるわけではない、

この「コトバ」は、この時期、新しい言い方、 認識として人々に広まっただけで、

「イシキの回帰」は、これまでも・・・昇華・悟り・解脱・覚醒など、

様々な「コトバ」で伝えられ、多くの存在が、それを行ってもきた

 

古今東西の国々で、険しい山々や洞窟などの人里離れた場所で、

行者と言われる人々が目指し続けているのは、

この「神々の世界」(第七イシキ層)への「イシキの回帰」であって、

彼らは幽界・霊界(第二〜第五イシキ層)に興味は無いのだ、

 

彼らは、自然の中での行を通し、幻想世界の物質や観念を超えて、

天界へ回帰する道、神に還る道を、探求し続けてきた、

もちろん、厳しい行をしたからといって、そういったイシキの在り方、

波動に成るかどうかは、その存在次第だろう

 

そして実際には・・・行によってだけではなく、人生体験の中から真実を見い出した人々、

自然から学び覚醒した人々、ヨーガや宗教や哲学を通して悟りを開いた人々、

愛と奉仕に生きることで目覚めた人々、迫害を受けた人々、

他の存在のため犠牲になった人々、その文明全体で、あるいは民族ごと・・・、

また、釈迦やイエスのように人類によく知られている存在や多くの無名の存在・・・など、

 

この「イシキの回帰」は、数多くのイシキ存在が、

すでにそうなっていて、ずっとそうしてきてもいた、

 

また全ては各々の存在の・・・イシキの波動によるものであり、

その人の行い・・・修行・教えの順守・奉仕・迫害・犠牲・などに対する、

「ご褒美」として、この 「イシキの回帰」が成されるというわけではない

 

天の玉座に座って、行いを見張っている存在はいない

全ては、個を体験するイシキ存在自らが、

自らのイシキ状態・イシキの在り方・・・と共鳴する波動によって、

 

自らの在る場・自己の認識する世界を、

常に選択・決定し続けてゆくのである

 

・・・このことは、これまでも・・・愛の表現によるイシキの在り方、

波動選択・波動決定・・・といった表現で伝えてきた、

 

その個や文明・民族のイシキが、その波動に成りゆけば誰もが「イシキの回帰」をする

そして・・・だからこそ、あなたももちろん、その波動に成りゆけば

再統合・アセンションを実感・体感するだろう

 

故に、まずは「難しいことにしない」「簡単である」・・・と決めることだ、

あなたがそう「決めること」が大切なのは、もう理解してもらえるだろう、

そしてそれは、実際に簡単である・・・本当は、誰にでも出来る、

 

コトバによる比較にはなるが、これまで人類が疑うこともなく選択・決定して来た「死」よりも、

再統合・アセンションの方が、実際は簡単だ

何故ならあなたは、苦しんだり、悲しんだり、痛い思いをする必要もない・・・、

それは、ただ・・・無限愛・無限歓喜・無限自由の道なのだから、

 

山奥にこもることも、大変な修行もなく、誰にでも出来る

それに、いま全体の波動が上昇しているので、それがあなたを助けている

アセンションした人々も、常にあなたを助けている

 

もしも難しいことがあるのだとしたら、

「幼子が天国を創る」・・・と言われていることかもしれない、

 

それは、幻想の中で構築してきた様々な「観念」の解放である

それには天動説を地動説に変える様な、物事の見方が180度変わってしまうイシキの変容

・・・「コペルニクス的転回」が必要な場合もあるだろう

(※コペルニクス的転回・・・天動説を地動説に変える様な、

物事の見方が180度変わってしまう事を比喩した言葉)

 

また、この幻想世界の「常識」「争うことなく」ひっくり返す・・・「純粋さ」「無垢さ」

また、「おごり(驕り)」「おくす(臆す)」もない・・・「単純さ」「シンプルさ」

 

故に・・・「幼子と成って花のように在れ」・・・なのである、

 

しかし、その「幼子」も実は、あなた本来のスガタであり・・・、

本質のあなたは、永遠に変わらず、いまも純粋で無垢な幼子である

 

故に・・・成るのでも・創るのでも・他を探すのでもなく、

 

すでにそうで在る「幼子」現し

すでに居る「天国」気付き

「花」がただ在るように、すでに内に在る

「ただ在る」ことが見えるように成るだけ・・・なのである

 


フツウと特別

 

さて、あなたはもしかしたらアセンションした人々を

これまで「特別」と感じてきたかもしれない

そして今の自分は「フツウ」で、これからその「特別」

成りたい・成ろう・成る・・・と感じているかもしれない、

 

しかしそれはまったくの「あべこべ」・・・真逆である、

 

あなたは、これまで「特別」だった

そして・・・これから「フツウ」に成るだけなのだ

 

・・・これからあなたは「フツウ」に成りゆく

本質の自己を知る度ごとに「フツウ」に成りゆく

これまでの「特別」な状態を手放し続けて「フツウ」に成りゆく

 

やがて「ワクワク」も「良い気分」も通り越して、

「静けさ」という「フツウ」・・・「ただ在る」という「フツウ」に成りゆく

 

・・・これまであなたは「特別」だった

あらゆる「冒険物語」を書いて、あるいは丸ごと「社会イシキ」を受け容れて、

「自分は人間」と決め、「善・悪」を創造し、「喜怒哀楽」を生き、

「死」を創造し、それら全ての「特別」な状態を「当たり前」と決め、

 

「ゲーム休憩」「幽界」を創造し、「輪廻転生」を創造し、

そんな「特別」を、自らの在る場・自己の世界と選択・決定し続けてきた

 

パンだって、本当はもうすでに手から出していた、すご〜〜く「特別」な方法で

・・・人類社会・お金という概念・流通・パン工場やパン職人・店・パンを買う

・・・という行程を、幻想の中で創造し、パンを手に入れる

 

それは、ある見方をすれば、自ら創った夢の中で、

紆余曲折の「特別」な方法を使って、「パンを手から出していた」

・・・ということが出来るのではないだろうか?

 

こうして、あなたという神は自ら「神自覚」を取っ払って「特別」を体験して来たのだ

そして今度は、あなたは「神自覚」を感じる度ごとに「フツウ」に成りゆく

「神本来の在り方」・・・という「フツウ」に還ってゆくのだ

 

・・・さあ、これが「コペルニクス的転回」だ

 

これから先もあなたは、自分のことをフツウだと感じ続けるだろう、

そして、これまでが「特別」だったことに気付いてゆくだろう

 

イシキが変容して、たとえ何かがわかっても、あるいは出来るようになっても、

やがてそれらは、あなたにとってフツウのことになってゆくだろう、

そして「フツウ」に、奇跡と言われていることを行うだろう、

 

それは・・・「夢の中の創造」という「紆余曲折」を経ないで、

単純に・シンプルに成るだけなのだ、

 

さて、私たちはここで、説明の為、あえてカテゴライズしてみたが

みんな「特別」「普通」を使い分ける、

しかし、それは単なる「カテゴライズ」だ

 

一体・・・何が「特別」で、何が「普通」なのだろう?

どこら辺までが「特別」で、どこら辺からが「普通」なのだろう?

それは、本当は誰にも決めることなど出来ないのではないだろうか?

 

さて実際には、多くの人はみんな自分のことは「フツウ」だと思っている

それは、自分にとっての「今の自分」は、普通に決まっているから

 

他との比較をするならば、「ちょっと違う」「だいぶ違う」と感じてはいても、

様々な変容を経てイシキが拡大成長して来たとしても、

「花は自分の成長に気付かない」・・・から、

自分にとっては、今の自分は常に「フツウ」であって、

「異常」や「特別」とは感じてはいないのではないだろうか?

 

しかし、もしも10年前・20年前の自分と、今の自分とが出会って話をしたら、

「過去のあなた」は「今のあなた」のことを、

不思議なことを信じてる「特別な人」とカテゴライズするかもしれない

 

そんな風に人は単に、自分が信じていないこと・出来ないこと・知らないことを

やったり、言ったり、決めたり、知っている人を見て、

「特別」とカテゴライズしているだけなのではないだろうか?

 

たとえば・・・あなたが何かを達成して・・・、あるいは創って・・・、

みんなは、その「こと」や「もの」をすごく褒めてくれた・・・とする、

そこで、あなたは、みんなにもその達成感や幸福感を味わってもらおうと思い、

その「やり方」や「創り方」をシェアリングしようと思う、

 

ところが、みんなは「あなたにしかできない」「あなただから出来た」

「難しくて出来ない」「わたしには無理」「あなたは特別、わたしはフツウ

・・・といって、試してみようともしない、

そんなときあなたは「どんな感じ」を受けるだろうか?

 

アセンションした人々は、あなたにシェアリングを試みては

「そんな感じ」をいつも味わっているのだ

もちろん、すぐに変容させるだろう・・・「無限自由だ!しゃあないか」・・・と・笑

 

みんな、「自分はフツウだから出来ない」と言うとき、それは「神自覚」を取っ払った

「特別」・・・特殊に創った別々だという分離幻想・・・の状態で

「不通」・・・切り離され通じていないという認識・・・を創っているだけだ

 

彼らは「自分は不通(通じてない)だから出来ない

・・・決めている」のだ

 

しかし、やがては誰もが「神自覚」を手にして、

切り離され通じていない「不通」から、

遍なるものにじる「普通」と成って

・・・個の神を自覚し、やがては自らが・・・源そのものだとわかるだろう、

 

そう・・・アセンションした人々は、あなたとまったく同じだ

・・・あえてカテゴライズするならば、みんな「フツウ」の存在なのだ

・・・そして、あえてカテゴライズするならば、あなたは今はまだ「特別」なのかもしれない

 


トンチンカンでワカランチンな、あ〜かんちがい(神違い)

イエスや釈迦を始めとした多くの聖人たち・・・、

アセンションした人々は・・・、一体どんな存在なのだろう?

 

これまで語られてきたような、神々・高級霊であって、

あなたとは、まったくかけ離れていて近寄りがたい存在、逆らうと恐ろしい存在、

到底及びもつかないような偉大な存在なのだろうか?

 

ひとつなるもの・・・という大きな海があって、

それが無限の個・・・「ひとしずく」と成って体験しているのだとしたら、

あなたという「ひとしずく」は、他の「ひとしずく」と違うことなど在り得るのだろうか?

 

同じカラダの右足と左足のどちらかが、優れているとか・劣っているとか、

進んでいるとか・遅れているとか、比べることが出来るのだろうか?

 

この現実世界の極性幻想による、

価値判断比較評価が、人類の目を曇らせてきた

 

「中庸で在れ」と言われ、そう在ろう、そう成ろうとしても、

この現実世界に於いては、どうしても極性幻想で振れやすい

・・・そして実際に、「おごる・奢る」「おくす・臆す」にも振れてきた

 

イエスや釈迦の名を聞いて「恐れ多い」「神で特別」と思ったり、

「自分とは異質」「神などいない」と決めてもきた

その「振れ」が、一方では「宗教」や「偶像崇拝」にも成り、

一方では「無神論」や「唯物論」にも成ってきた

 

しかしこの・・・、「おくす・臆す」に振れては「恐れ多い」と敬ってきた神、

「おごる・奢る」に振れては「無神論」で否定してきた神とは、

他でもない・・・自分自身だったのだから、

 

人類は、実に、ものすごく、可笑しすぎる程の

「トンチンカン」で「ワカランチン」なことを、

やっていたとは感じないだろうか?

「あ〜かんちがい・・・神違い」・・・もはなはだしい、

「どんだけ〜」・・・とあなたは感じて、笑ってしまわないだろうか?

 

しかし、疑うことなく人類がやって来た

この「トンチンカン」で「ワカランチン」な

「あ〜かんちがい・神違い」をひっくり返すのが、実に、全く、ややこしい

 

「奇跡」を見せるほどに人は敬う

自分以外のものにパワーを譲り渡し、偶像を立てて拝んでもきた

スガタを見せれば、なおさらのことだ

故に一部例外を除き、アセンションした人々はスガタを見せない、

それは、まだその時になってはいない・・・という同意があるから

 

第七イシキから現実世界にカラダを出現させ、行き来する存在は多く、

いつもあらゆる場と時に於いて、見える次元でも働きかけ続けている

 

天使や精霊として感じる存在もいるだろう

全く気付かないようなそこらの「おっちゃん」に成っているかもしれない

 

しかし、今の人類にもしも「気付くようなカタチ」で見せてしまえば、

これまでのように、その存在を奉ったり、信仰したり、言うなりになってしまうかもしれない

 

「奇跡」を見ることを切望し、自分の外に力があると信じ、

自分の内を見ようとはせず、「現象」に目が向いてしまうかもしれない

 

「教えられたこと、示されたこと」を実践するのではなく、

これまでの宗教がしてきたように、幻想の中でカタチを変えてしまうかもしれない

また「証拠」を欲しがって、物質や死を超えてゆくことも出来ないかもしれない

 

そして実際に、アセンションした人々は、ずっとそうしてきて、ずっとそうだった・・・

何度も何度も何度も何度も試みても効果がなければ、誰でも違う方法を考える

「同じ徹を踏まない」のは、あなたも私たちも同じである

 

そうして、様々な方法で試してゆく

それは・・・人類の、実に、ものすごく、可笑しすぎる程の

「トンチンカン」で「ワカランチン」な、「あ〜かんちがい・・・神違い」・・・を、

ひっくり返すのが、私たちの「ただひとつの目的」だからだ

 

さて、こうして振れやすい極性幻想の中で、人々は「中庸で在ること」を目指し、

様々な哲学や教えを学び、道を究めてもきた

それもまた、その(波動の低い)時期には大切な要素でもあった

実際に、かつて多くの存在たちは、そうやって幻想を超えてもきた

 

それは大変な道だった・・・しかし、あなたにはもっと簡単な道もある

それは・・・全ての「ゲーム情報」「ゲーム感情」を

ただ・・・手放し続けて(愛に還し続けて)ゼロに成りゆく道だ

 

何故なら、この世界の全ては幻想であり、

それらは、まったく実体のない幻なのだから・・・

 

幻想の中で幻想に騙されまいとしても、それは難しい

それはあなたが夜見ている夢の中で、

一生懸命に夢から目覚めようとしていることに似ている

 

そして実際に、

あなたは、いま・夢の真っ只中にいるのだ!

それは、あっちに振れたり、こっちに振れたりの喜怒哀楽の夢だ

「トンチンカン」で「ワカランチン」な

「あ〜かんちがい・神違い」が思いっきり味わえる

めちゃくちゃ実体感のある・・・神が創って、神が見ている夢

 

しかし夢の中でも、「自分の気分」に「気付いている・イシキ的に成る」ことは出来る

・・・故に、「自分の気分」に「イシキ的に成って」、

自分が感じている・・・「抵抗」と「執着」に細やかに気付き、

とやかく考えず(すっぺったりこっぺったりしないで・つべこべ言わず)

ただ・・・手放し続けて(愛に還し続けて)ゆくだけのことだ

 

すると価値判断や比較や評価などから、

いつの間にか抜け出ていることに、やがてあなたは気付くだろう

「中庸で在る」ことが、あなたにとって「フツウ」になってゆくだろう

 

そして、自分がやっていた「トンチンカン」も「ワカランチン」も

「あ〜かんちがい・神違い」、全てを楽しめるように成るだろう

 

故に、・・・これら全ての人類の創った神の概念も、「おごる」も「おくす」も、

それらがあなたの「気分・イシキ」の内に、まだ見える・感じるのであれば、

いま・ここ で全て手放し(愛に還し)払拭することだ

 

そして、アセンションした人々は、それぞれの個性を持った、

あなたの兄弟姉妹、同胞、同じ「源」の体験する「個」、

同じカラダの右足と左足、海と各々のひとしずく・・・と真に知ることだ

 

また、あなたがこれまで、自分こそが

「第七イシキ」の存在と知らずにいたことや

そこに還らずにいたことを、悔やんだり・責めたりする

「気分」も手放し(愛に還し)、自分自身を許し、愛することだ

 

あなたは、ただ知りたかった

そして、ただ夢の中で遊んでいたのだ

あなたは、楽しかったり苦しかったりするいろんな夢を見ていた

・・・ただ、それだけのことだ

 

自分や誰か(神々)が「夢を見ていること」を責めるのも、

自分や誰か(神々)が見ている「夢の内容」を責めるのも

「トンチンカン」で「ワカランチン」な

「あ〜かんちがい・神違い」ではないだろうか?

 

また、私たちはこの世界のコトバを使った表現として

「長くイシキを留まらせてきた」・・・などと伝えてきたが、

あなたの認識している時間は幻想だ

 

長いも短いも、早いも遅いも、進んでいるも遅れているもない

慌てることも急ぐこともないいつまでにやってしまわなければということもない

好きなだけアソビほうけて「トンチンカン」で「ワカランチン」な

「あ〜かんちがい・神違い」をやりたければ、やっていてもかまわない

 

そこには危険や死という幻想が在るだけで、危険も死も本当はない

悲しみや苦しみという幻想が在るだけで、そんなものも本当はない

全ては無限愛なる恩寵の中で、神が創って神が見ている夢なのだ

 

そして、全ては無限自由の中での、自分自身の選択と決定

はっきり言って、アセンションをしてもしなくても、全く「問題はない

(アセンションを語る私たちがいう・これこそまさにトンチンカン?・笑)

 

何故なら・・・実在実相は無分離で、誰もがすでに・常に・永遠に「統合」している

それはただ単に「分離幻想」を超え、

「統合」だけが在ったことに目覚める過程にしか過ぎない

 

また、あなたよりも賢い存在も、劣っている存在もいない、

実在・実相に於いては、誰もが「全てを知っている存在」である

 

アセンションした人々も、あなたの隣の「おっちゃん」も

本質は「全てを知っている」神で在ることに、なんら変わりはない

全ては幻想によって、「ただ・・・そう見えている」だけにしか過ぎない

 

イエスは「あなたも私と同じように成れる、私よりも偉大に成れる」と語った

・・・それはまさしくそのままのイミだ

それをそのままに「おごる」ことも「おくす」こともなく、

ただ・・・「スナオ・主直」に受け容れる・・・ことこそが

イエスの望みだ・・・とあなたは感じないだろうか?

 

アセンションした人々はあなたと同じ存在だ・・・、ただ、違っているのは波動だけだ

その違いは・・・、私たちは自分が神だと知っているが、

あなたはまだ自分が神だと知らない・・・あるいはそう思い始めていても

いまはまだ、そうと決めきっていない・知りきっていない・・・というだけのことだ

 

私たちは死は無く、永遠のイノチだけが在ることを知っているが、

あなたはまだ知らない・・・あるいはそう思い始めていても

いまはまだ、そうと決めきっていない・知りきっていない・・・というだけのことだ

 

あなたが自分を神だと「決めて」、神として生き始めれば、

あなたもやがて、自分が神だと知るだろう

あなたが死を超えることを「決めて」、その彼方を目指せば、

カラダを死なせることも決してないだろう

 

見えることに囚われず、見える現実を恐れず、

その彼方を見ようとするとき(俯瞰するとき)、本当のことが見える

 

見たから信じるのでなく、信じたとき見える

・・・というコトバがある

その言わんとするところは、まさにその通りなのだが、

私たちは、「信じたい」「信じよう」とするのではなく、

「決めること」こそが、あなたにとって大切だと感じている

 

見なくても決め、見なくても感じ、見なくても知る、

その時・・・あなたの内成る「源」・・・神が目を覚まし、

あなたは自分こそが神であることを知るだろう

 

それにはあなたが自分自身で決め続けてゆくしかない

故に「見たから決めるのでなく、決めたとき見える」・・・と伝えよう

 

そして、あなた自身で「決める」ことによって・・・

「トンチンカン」で「ワカランチン」な

「あ〜かんちがい・神違い」・・・の夢を超えてゆくのだ

 


証拠が揃う宇宙

 

私たちは、全てに於いて「問題は無い」ことを知っている

全てに於いて・・・なのだから、あなたにも・他の人にも

どこにも・何にも・まったく・一切合切・・・「問題は無い」のだ

 

「アセンションをしてもしなくても全く問題はない」・・・と伝えたのは、

まさにその通りだ・・・何故ならこのコトバ通り、

全てに於いて「問題は無い」のだから・・・

 

ただ・・・全てに於いて「問題は無い」ことを

知っている」か「知らない」かはある

(知らない・・・とは、気付かないまま・思いださないまま・・・というイミでもある)

 

そして、いまはまだ、多くの人が様々な「問題がある」と感じていて、

・・・故に、全てに於いて「問題は無い」ことを

「知らない」(気付かないまま・思いださないまま)でいる

 

そこで様々なカタチでこの次元に働きかけ続けている私たちは、

こうした 見えないカタチでのチャネリングなどを、多くの場で試みてきた

 

私たちの目的は・・・、人類の、実に、ものすごく、可笑しすぎる程の

「トンチンカン」で「ワカランチン」な、

「あ〜かんちがい・・・神違い」・・・を、ひっくり返すこと、

幻想の中で、あらゆるものが「あべこべ」になっていることを伝え

「コペルニクス的転回」をしてもらうことだ

 

ひとつなる源の体験する個として・・・兄弟姉妹として・・・同じカラダの右足・左足として、

全体で在る源・・・という、あなた自身の本質を、伝え、示し、

あなたのイシキの拡大と変容を目指している

 

・・・それは「左足と共に歩きたい右足」・・・と言える

そして、全ての囚われや枠をはずすことが目的であって、

何らかの新たな枠を、創ろう、与えようとしているわけではない

 

あなたがその「流れ」に乗らなかったからといって、責められることも無ければ、

永遠に葬られることも無く、あなたはどう在っても久遠に安全で安心である

 

私たちはあなたに「問題がある」と思って、こうしているのではない

私たちは、あなたには何も「問題がない」ことを知っている

あなたが、すでに、常に、永遠に神で在り、「統合」していることも知っている

 

しかし、あなたはそうではないかもしれない・・・

いまはまだ・・・様々な「問題がある」と感じているのかもしれない・・・

いまはまだ・・・「統合」の実感がなく、「分離」のイシキにいるのかもしれない・・・

 

そして、私たちは・・・実在の「無分離」の中で、

あなたが様々な「問題がある」と感じていることを・・・知っている・気付いている

だから何とかして、全てに於いて「問題はない」ことを伝えようとしている

 

これまでも「チャネリング」は、あなたの希求・召喚であると伝えてきた

 

そう・・・問題があるから「あれこれ」伝えているのではなく、

全てに於いて「問題はない」ことを伝えているだけなのだ

・・・故に、あ〜でもない、こ〜でもない・・・と、様々なことをしつっこく伝えてはいても、

実際には・・・全てに於いて「問題は無い」のである

 

だから、あなたにもこのこと・・・再統合・アセンション・覚醒・悟り・・・や、

その他何であれ・・・全てに於いて、誰かを脅かしたり、急かしたり、責めたり

無理矢理に変えようとしないことだ

 

様々な「問題がある」と感じている人々の

いまはまだ・・・「問題がある」と感じてる・・・

その・・・「ありのまま」受け容れてゆくことだ

 

焦る気分も責める気分も含めた、自分の「感じていること」に細やかに気付き、

誰かが見せてくれた幻影を全て自分の体験として捉え、それらを手放し(愛に還し)続けて、

全てに於いて「問題は無い・・・という

イシキの在り方へと変容してしまうことだ

 

・・・全てはあなたが見るために、あなたが置いているのだ

人も、物も、状況も・・・あなたの宇宙の一切合切・・・あなたの認識する森羅万象・・・

それは、あなたが見るためだけに置かれている

・・・それをいつも忘れないでいることだ

 

あなたはこの次元の体験を通して知ることを選んだ、

体験こそが、あなたに「気付き」をもたらすからだ

そして全てはあなた自身が創っている幻想で、何も危険など無いのだから、

「体験を通して知る」ことを見守りながら

右足として左足を助けることが、いまの私たちの同意である

 

あなたが自分で「自分の真実」を「決めて」、

全ての「抵抗・執着」を自ら手放し続けることで、

全てに於いて「問題は無い」・・・と、

真に知った時(思いだしたとき、気付いたとき)、

幻想を超え、死を超えて、自分自身でその先を見るように成るだろう、

 

・・・そうやって全ては、自分で知る・自分で見るのである

誰も、あなたの「感じること」を変える事など出来ない

 

全ては「自分の決定」を変容することで、

自分の宇宙に「現れる現象」を自分で変えて

「自分でわかってゆく」しかないのだ

 

あなたは「源」という「大いなるイシキ」が、個別化し体験しているイシキ存在だ、

そしてあなたは、自分が見たいと

「無イシキ」あるいは「イシキ的」に「決めた」

「証拠が揃う宇宙」を瞬間・瞬間、創り続けている

 

それは・・・誰も、抗うことも、止めさせることも、変えることも決して出来ない

「大いなる源」であるあなたが個別化して創造し、見続けている、

壮大なる幻想・・・神自身が見ている夢だ

 

あなたは、イエスや釈迦や多くの聖者達がかつていて、

また、いま「こだまなくらしサークル」という見えない領域の存在たちがいて、

 

アセンションした多くの存在がいて、「天使や精霊」などが自分を見守ったり助けたりして、

自分はその中で目覚めてゆこうとしている・・・と認識しているかもしれない

・・・確かに私たちは、そのようにも伝えてきた・・・それは、ある視点ではそうだからだ

 

しかし、それはあなたという「ひとつなるもの・・・大いなる源」が個別化して、

そういう「証拠が揃う宇宙」を創造し、見ている夢でしかない

 

シンクロや、ベタベタと揃う言葉の繋がり(駄じゃれ)や、

ネットを通しての他の存在も体験・体感しているという証拠や、

不思議な現象が起きたという証拠や、

 

天使や精霊が見守ってくれているという証拠

「トンチンカン」と「ワカランチン」でシンクロしてゆく

チャネリングメッセージ「こだまなくらし」・・・という証拠(笑)や

あらゆる証拠を揃え、創って、自分の宇宙を自由に創造してゆく

 

あるいは、そんな存在は全部いない・・・や、自分は劣った存在・・・という

「証拠が揃う宇宙」も創れる

 

人類の罪を背負い「身代わり贖罪」として、十字架にかけられてイエスは「死んだ」??!!

そしてイエスは2000年前のまま変わらずに、

今も人類の罪を贖(あがな)うために苦しんでいる

・・・という「証拠が揃う宇宙」を創ることも自由に出来るのだ

 

無限自由にどんな宇宙も創れて、どんな体験も出来る・・・、

映画「マトリックス」で使われたコトバで表現するならば、

それはただ・・・「リロードするだけでいい」

 

そして「証拠が揃う宇宙」を創る・・・という「証拠が揃う宇宙」を創る・・・

という「証拠が揃う宇宙」を創る・・・これは、無限・∞に続いてゆく

 

・・・故に、私たち「サークル」は、あなたが

「証拠が揃う宇宙」に置いた幻なのだ、

だから全てはあなたが起こしているに違いない、

私たちも、他の誰も、あなたという大いなる神の夢に介在など出来ない、

 

あなたに「恵み」や「シンクロ」や「気付きの為の状況」を用意する存在は、

あなたの他には誰もいない・・・

 

何故なら、「大いなる源」としてのあなたは「ひとつなるもの」であり、

あなたの他には、誰もいない・・・

この宇宙には・・・あなたしかいない・・・のだから

 

全ては、「大いなる源」という「ひとつなるもの」で在るところの、

あなたという大霊が、自分自身を個別化させて、創り、見ている夢であり、

それは丸ごと幻想なのだから、

 

イエスも釈迦も「サークル」もあなたの認識でしかない

みんな、あなたという「ひとつなるもの」の

内に在るのであって、外に在るのではない

 

あなたの認識以外には、誰も何も一切は存在しない、存在することさえ出来ない、

あなた>全て(あなたの内に全てが在る)・・・なのだ

 

私たちは、あなたが「自分を目覚めさせる為」・・・

あるいは「でたらめと決める為」に創った、あなたの夢に登場した「偶像キャラ」だ

 

BBSで語ることがあなたを進める・・・と言ってきたのは、

霊験あらたかな「サークルからの恵み」が降りるからではない

 

本当は自分なのだけれど、自分では無いかのような他の存在に、

「恥ずかしい・至らない・どう思われるか」を超えてシェアリングすることで、

また、あなたが文章化することで、あるいは、他に見える存在の「書いたこと」を読むことで、

 

そして、質問によって答が導き出され、

「サークル」という・・・本当は自分なのだけれど、

自分では無いかのような、見えない領域の存在に

「お言葉」を賜ることで、幻想を超えるヒントを自分で自分に与え、

 

また、自分が付け加えてきた様々な抵抗に気付き、

リアル体験に於いても、幻想を超える「証拠が揃う宇宙」を創り始め、

その「証拠が揃う宇宙」を使って、自分自身を前に進めることが出来るからだ

 

そしてまた、自分が付け加えてきた抵抗に気付いてしまうことで、

「体験を通して知る」ためにあなたが創り続けている・・・

あなたのリアルを縮小させる、あるいは変えてしまうことが出来るからだ

 

・・・全ては、あなたが置いて、あなたの為にやっている

そう・・・、実に、全く、霊験あらたかなのは、あなた自身なのだ

あなたは自分で自分に質問をして、自分で自分の「お言葉」を賜っている

自分でシンクロさせ、自分で気付きを持ってきて、自分で駄じゃれを言って笑っているのだ

 

さあ・・・これもまた、「コペルニクス的転回」だ!

あなたという「大いなる源」という「ひとつなるもの」は、

自分自身をあらゆる、ものや存在や場所や状況に個別化させ、

地球体験という幻想世界を創り、日々、瞬間・瞬間・・・この

「証拠が揃う宇宙」を創り続け、それを見て、体験している

 

複雑な行程を使ってパンを手の上に置いているように、

別れたかのように見える・・・個別化させたあらゆる自分自身を使い、

紆余曲折の複雑な仕組みを創造しては

 

・・・自分を幻想に埋没させ続けている

・・・あるいは自分を目覚めさせようとしているのだ

どちらをやるかはあなたの自由だ

何を見て、どう決め、どうしてゆきたいのか、

自分の体験を、どんなものにしてゆきたいのかは、全てあなた次第だ

 

そして、自分の見たい「証拠が揃う宇宙」を創るには

「無イシキ」あるいは「イシキ的」「決める」だけでいい

 

そう、リロードする(決めることで読み込む)だけだ

 

そして多くの人は、この幻想世界で、

「死ぬ」という「証拠が揃う宇宙」を創ってきた

(他にも、自分にとって「楽しい」あるいは「苦しい」、様々な証拠を揃えて創り続けている)

 

そして、あなたが、自分の・・・「証拠が揃う宇宙」に置いた

「こだまなくらしサークル」は、「死は幻想だ」・・・と言っている

 

「死を超えましょう」・・・と言っている

それには、「死は無い」「死なない」「永遠の存在」と

「決めることだ」・・・と言っている

.

そして、あなたこそが

「神である」・・・と言っている

 

そしてあなたは、無イシキ、あるいはイシキ的に「決めること」

「証拠が揃う宇宙」を創っている・・・と言っている

 

さあ、あなたはどうするのだろう?

あなたはどんな「証拠が揃う宇宙」を望むのだろう?

そして無イシキ、あるいはイシキ的に「決める」のだろう?

 

なんでもござれだ・・・あなたは大いなる源「ひとつなるもの」なのだから

どんな宇宙も創造可能・・・どんな「証拠が揃う宇宙」も創れる

・・・という「証拠が揃う宇宙」も創れる・・・という「証拠が揃う宇宙」も創れる

・・・という「証拠が揃う宇宙」も創れる・・・・・・・それは・・・無限・∞、エンドレスだ・・・

 


わたしの内に全てが在る

 

本質のあなたは「ただ在る」という無限愛なる波動だ、

そして全ての本質は「それ」だ

しかし本質は「それ」であっても、個別化したこの幻想の中では、

極から極までの波動選択・波動決定による、あらゆる「表現」「現れ方」がある

 

その、あらゆる「表現」「現れ方」を使って、

あなたはこれまでずっと無イシキ、あるいはイシキ的に、

この「証拠が揃う宇宙」を創ってきた

 

そして、それらを、他からきたと思って(本当は自分なのに)驚き、

他から酷い目にあわされたと思って(本当は自分なのに)怒り、

他の存在や出来事や物質に(本当は自分なのに)抵抗や執着を感じることで輪廻転生し、

本当は自分なのに)他に神を創ってパワーを譲り渡し、

 

「無イシキ」「自動操縦」で「社会イシキ」「変性自我」(本当は自分)に

代理脚本を書かせて「悲劇」や「喜劇」を生き、

また「死」を当然のことと、無イシキに受け容れ「決める」ことで死んでもきた

 

それは確かに・・・実に、ものすごく、可笑しすぎる程の

「トンチンカン」で「ワカランチン」の

「あ〜かんちがい・・・神違い」ではあった

 

しかし、それらは全部、単なる夢だった

「あーでもない、こーでもない(つべこべ言って・すっぺったりこっぺったり)」と、

夢のイミ付けをしても仕方ない

自分で創った夢に騙され、埋没してきたことがわかって

「なんてこった、コンチクショー」と、夢を罵っても仕方ない

 

夢では誰もがみな、「トンチンカン」をやり「ワカランチン」にもなる

そしてヘンテコな「かんちがい・・・神違い」もするだろう

何故なら・・・それは、ぜ〜んぶが夢なのだから・・・

 

あなたは、自分が夜中に見た夢を責めるだろうか?

どんな可笑しな夢であったとしても、目覚めてしまえば、

それは何の「問題も無い」ことがわかるはずだ

 

そして、夢の中では何であんなにも

「トンチンカン」で「ワカランチン」な「かんちがい」をしてたのかさえ、

朝ご飯を食べ終わるころには、「ど〜でもいいや」と思えて、

どんな夢だったのかさえも、やがてはすっかり忘れてしまうだろう

 

それでも、どうしてもそのイミを決めたいのであれば、

あなたがイミ付けして「夢判断」をするしかない

実際に、そうやって一生懸命に、夢を忘れない様にしている存在は多い

しかしイシキが「過去」にタイムトラベルしていては、

いま・ここを生きられない・・・ということはあなたにはもうわかるはずだ

 

さて、あなたは誰かに「昨日こんな夢見たんだ」・・・と聞かされても、

「なんて奴だ許さんぞ」「そんな夢見るんじゃない」

・・・などとはきっと言わないだろう

 

何故か?・・・それは夢の話だとわかっているから、

夢など「どう在ろう」ともいいとわかっているから

夢に決まりのついたイミなどないとわかっているから

 

そして本当は、あなたの体験している現実も夢なのだから、

「どう在ろう」ともいいのであり、

決まりのついたイミなどないのだ

 

もしも、その全てが夢だとわかってくれば、あなたもきっと

「なんて奴だ許さんぞ」「そんな夢見るんじゃない」

・・・とは言わなくなることだろう

 

この世界の全てを、自分という神の見ている夢として、

また、他の神々の見ている夢として受け容れ、

自分と世界の全てを「ありのまま」で愛するだろう

 

そして、だんだんと夢に騙されなくなることだろう

そしてそう成りゆくには、イシキ的に成って、自分で決定し続けてゆくことだ

 

あなたが脚本を書かなければ(イシキ的になって自分で決めなければ)

現実はいつまでも待ってはくれない(ウチワでパタパタ脚本待ちは続かない)

 

あなたが決めない部分は、あなたが常時感じている波動と共鳴する

「社会イシキ」や「変性自我」・・・あるいは「幸福イシキ」や「ただ在るイシキ」

といった代理脚本家(・・・それも自分だが極から極、

あらゆる「表現」「現れ方」がある)・・・で埋められる

 

ゆえに、どこに在ろうとも、あなたの「気分・イシキの在り方・イシキ状態

といった「波動選択・波動決定」が大切だ・・・と伝えてきた

 

さて、これまで、エンパワーメントについて、「外にパワーを渡さない」・・・・と伝えてきた

これは更に「コトバ」を尽くすならば、

「外に在るかのように見えるものにパワーを渡さない」・・・であり、

実際には、「外は無い」・・・あなたの内に全てが在る

 

このことは、・・・「自分の認識」と理解しても、「源としての自覚」

「私はひとつなるもの」「私は大いなる宇宙イシキ」などと理解しても、

何でも、あなたのイメージしやすい、ビジョン化しやすい感じ方でいい

 

また、これまで「あなたがあなたを目覚めさせてゆく」

「あなたが自分を救う救世主」・・・と伝えてきた

 

これは更に「コトバ」を尽くすならば、

「個別化した全部の自分を使って、自分を目覚めさせる」

「自分の内の目覚めている部分(ガイドやヒビキ)を使って自分を目覚めさせる」

・・・のであるが、

実際には「他は無い」・・・あなたしかいない

 

「個別化した全部の自分」とは・・・「無分離」と理解しても、

「幻想で他に見えるだけ」「自分が置いたクリスタル」などと理解しても

何でも、あなたのイメージしやすい、ビジョン化しやすい感じ方でいい

 

そしてまた、それは全部なのだから「イジワルな人」も「やさしい人」も

「大変な状況」も「過酷な人生」も「嫌なこと」も「いいこと」も「BBSに書くこと」も同じだった

 

「自分の内の目覚めている部分(ガイド・ヒビキ)」とは・・・、

「源のヒビキ」「内なるフィーリング」「シンクロ」「チャネリング」

「もたらされる情報」などと理解しても

何でも、あなたのイメージしやすい、ビジョン化しやすい感じ方でいい

 

そしてまた、それは全部なのだから「イエス情報」も「サークルのヒビキ」も

「手に入れた本」も「誰かが言ったこと」も同じだった

 

もしもあなたの内にこれまでは、それらが外から来ると

感じている部分が、まだ少しでもあったたのならば、

あなたの内の目覚めている部分である「サークルのヒビキ」は

「さあ、コペルニクス的転回だ!いま・それをひっくり返そう!」

・・・と伝えよう

 

私たちが伝えてきたことが、もしも「あなたの真実」と感じるならば、

わたししかいない

わたしの内に全てが在る

 

・・・そう「決める」こと・・・「いつでも、た〜だ・・・決める」

「き〜めた・・・っと」・・・決めるのだ

そして・・・そう「知る」ことだ

 


やることはひとつ・めちゃすご〇〇

 

アセンションした人々は「フツウ」の存在だ

ただ、目が覚めただけだ

それは単に、朝になって夢から目覚め、ベットから起き上がったようなものだ

 

アセンションした人々の波動は・・・、本来の在り方に還っただけだ、

戻った、あるいはそのまま、ありのまま、というだけのことだ

それは、あなたの内成る「源」と同じ・・・無限愛・無限歓喜・無限自由の波動だ

 

そしてそれは、あなたの内に在るのだから、

本質としてのあなたは、すでに、常に、永遠に「それ」なのだ

 

・・・「ひとつなるもの」は、無限愛・無限歓喜・無限自由なる「自己」を

体験する個イシキとして個別化し、無限拡大した

個別化した個イシキは「分離幻想」の中で「別々」という夢を見た

 

しかしそれは単に・・・無限に個別化し、無限のオリジナル性と成って、

個を体験し続けているだけであって、

 

本質としては、かつても、いまも、これからも

「ひとつなるもの」で在って

すでに、常に、永遠に

「ひとつなるもの」しか存在しない

 

それは例えれば、海が個別化して見ている夢

 

・・・「おおわだつみ」の「ひとしずく」は冒険の旅に出た

蒸発して雨となり、泉となって川となり、あらゆる形態を経て、

やがて、「おおわだつみ」に戻ってきた

 

・・・しかし

その冒険の旅の全ては、「しずく」

「おおわだつみ」の中で見た夢だった

 

「しずく」は「おおわだつみ」から出ていったのではない

ずっと「おおわだつみ」の中にいたのだ

 

更にまた、・・・「しずく」は「おおわだつみ」が自らを個別化し

「しずく」という個としてのオリジナル性を持たせた「おおわだつみ」自身であった

 

・・・故に

その冒険の旅の全ては、「おおわだつみ」

「しずく」と成って見た夢だった


おおわだつみのひとしずく・「しずく」の大冒険

 


もちろん、それらは全て「視点」の問題であって

あらゆる「見方」が出来るだろう

 

しかし、「個イシキ」は「ひとつなるもの」から

どう在ろうとも、出てゆくことは・・・決して出来ない

すべては全体で在る源という「ひとつなるもの」の内に在るのだから・・・

 

そしてあなたはその「ひとつなるもの」なのだ

あなたの旅の全ては・・・

 

「あなた」が

「ひとつなるもの」の中で見ている夢であり、

 

「ひとつなるもの」が

「あなた」と成って見ている夢なのだ、

 

・・・さて、どんなにコトバを尽くし、たとえ理屈で理解しても、

体感が無ければ、あなたはそうは成りゆかない

そして、その「体感」は自分で持ってくるしかない

 

・・・ではどうやって???

それは、「すでにそうである」と決め続けることによって、

そして・・・この世界であなたに出来ることをやって・・・だ

 

「・・・それは、たとえ相手が誰で、どんな人で、

どういった関わりの存在であろうとも・・・

 

他の存在(・・・に見える本当は自分自身)に

「愛」を表現する・・・「シェアリング」・・・と、

それを通して、あなたという「イシキを拡大成長させる」こと、

 

そして、実際には様々なことをやっているように思うかもしれないが、

ここでやること、出来ること・・・は

それ「ひとつ」だけ・・・

だからそれをやればいい

 

それは、どんな小さなことでもいい

そして、あなたが「神に成ったつもりで生きた時」

・・・神で在ることが実感出来る(BBSより)・・・のである.

 

「シェアリング」はこの世界でしか出来ない

そしてあなたは、この世界でそれをやって自分を前に進めようと思っていたはずなのだ

 

それはもちろん、スピリチュアルに限らない

いつでもどこでも誰にでも、やろうと思えば出来る

そう決めるならば、全てを「シェアリング」と変えてしまうことも出来る

 

難しく考えることも堅苦しく考えることもない、

ほんとは、みんなあなた自身なのだから

ただ、イシキ的に成れば良いだけのことだ

そして、あなたの愛の表現なのだから、

あなたの内成る「ヒビキ」を指針とした、あなたの感じる「やり方」でいい

 

この「シェアリング」は・・・自分では無いかのような、本当は自分である存在に

愛を表現する・現すことで、自分を拡大成長させる

・・・実に「複雑な(見方によってはシンプルな)カラクリ」で、

すごウデ詐欺師もびっくりの「ひとり芝居

 

しかし、それが「出来る」「させてもらえる」ことは、本当はすごいことなのだ

あなたは「自分が愛を感じた時」に「良い気分」を感じる・・・と伝えてきた

しかし、自分だけれど、他に見える存在がいなければ、それは出来ない

 

無分離であるならば、本当は「シェアリング」はありえない

ところが「分離幻想」の中では、他に見える存在が居てくれるおかげで、

それが可能かのようになっていて、

あなたはこの世界で「シェアリング」が出来るのである

 

「シェアリング」することで、あなたは「愛を感じ」「良い気分を感じ」

更にイシキを拡大成長させて「統合感を感じ」「気付きを感じ」

それらはやがて、「無分離」や「無限愛」や「無限歓喜」や「無限自由」を

感じる「イシキの在り方」へとあなたを誘い続けるだろう

 

そうやってすごウデ詐欺師もびっくりの「ひとり芝居」

あなたは、自分では無いかのような、他の存在に愛を表現することで、

自分を前へと進めることが出来るのだ

 

あなたは、もしかしたら、いまはまだそれに気付いていないかもしれないが、

「シェアリング」は、この幻想ゲームの中だけで出来る・使える

「めちゃすごアイテム」なのだ

 

もちろん、無心でやらなければ何のイミもない

また大変な状況の中「満たされない想い」でやっていては、

もちろん「シェアリング」とはならない

 

それは、神で在るあなたの「イシキの在り方」が、そう決めているから

その「あなたの想い」が、あなた自身を傷つけてしまうだろう

同じ道具は自分を前へと進めるものにもなり、自分を傷つけるものにも成る

これがメスにするか・ドスにするか・・・である

 

それ(シェアリング)は本当はチャンスなのだ

あなたがそうと決めれば・・・誰と関わるときも、全ては「シェアリング」に出来る、

自分の子供、親、パートナー、友人、職場のいやな奴・・・出会う人みんなだ

 

子育てであろうが、看病であろうが、手伝いであろうが、

お金をもらっての仕事であろうが、

あなたがそうと決めれば・・・何であろうと、どんな状況も、

たとえそう見えなくても、全ては「シェアリング」として使うことが出来る

 

落ちてるゴミをちょっと拾うのも、ただ笑顔ひとつでいることも、

あなたが好ましいと感じる愛のイシキ状態でいるならば、

あらゆる場と時と状況と関わりと・・・全部が「シェアリング」に成ってしまう

 

日々の全て・・・あなたの宇宙に登場する全員だ

毎日会う家族も、一度っきりの人も、ただすれ違う人も、動物も、花も、

人生で出会う誰も彼も・・・何もかもだ

 

たった一人でいる時でさえも、

「ただ・・・明るく楽しく在る」・・・というだけで、それは

人類全体への「シェアリング」と成っているのだ

 

大衆の前で、ある人が説法をした・・・素晴らしい説法であった

それは・・・たった一言だった

「神を見よ!」・・・・・・・・・・・・・

 

自分を見ようが、まわりの人やものを見ようが、全ては神

どこを見ようと見まいと・・・神しかいない

 

あなたは様々な「偶像」に騙されてしまいそうになるが、

あなたの出会う人も、周りのものも全ては神であり、

また、あなたと別れたかのように、ただ・・・「見えている」だけで、

本当は・・・全てがあなたなのだ

 

その全ては・・・あなたしかいない宇宙に、あなたが置いた幻影だ

その幻影をメスにするか、ドスにするかは、常にあなたの決定だ

 

そして・・・あなたが、もしもこの世界の幻想ゲームを超えたいのならば、

この「めちゃすごアイテム」

「無心」で「有効」に使わない手はない

 

・・・あなたはそうは感じないだろうか?


全てを「ありのまま」で愛する

 

源・・・あるいは「ひとつなるもの」と同じ波動の、

無限愛・無限歓喜・無限自由・・・と聞けば、

多くの人は 「どれだけ愛情深くならなきゃいけないのか」・・・とか、

「良い人にならなければならない」・・・と思ったりもするだろう

 

しかし、実は「それ」こそが、「あなた本来」の在り方なのだ

そして、「あなた本来」の在り方・・・と成りゆかなければ

「あなた本来」が現れては来られない

・・・ただ、それだけのことなのだ

 

アセンションした人々は、この「本来の在り方」で在り続け、

いつもあなたに働きかけ続けている

それは、この世界で例えるならば、「親が幼子に感じる愛」の無条件さに似ている

 

しかし、その「親の無条件の愛」さえも遥かに凌駕した無限愛だ

それは「ひとつなるもの」としての愛であり、

全てを受け容れる「無限愛」なる「イシキの在り方」だ

 

その愛はコトバの記述も超えている

「どんだけ〜」というのもこの世界の比較(極性)在ればこその表現だ

その「どんだけ〜」も超える「超無限愛」だ

 

アセンションした人々は

この世界の全てを「ありのまま」で愛している

そして、あなたの全てを「ありのまま」で愛している

 

アセンションした人々はみんな、あなたを知っている

それはあなたが自分の左手の小指を知っているようなものだ

 

その小指が感じている痛み(悲しみ・苦しみ)も知っている

実際のカラダのように、共に痛み(悲しみ・苦しみ)を感じている

・・・というのではないが、ただ・・・知っている・気付いているのだ

 

そして、その痛み(悲しみ・苦しみ)が幻であることも知っている

そして、どうすればその痛み(悲しみ・苦しみ)が無くなるかも知っている

 

私たちが、それを知って・気付いて、その痛み(悲しみ・苦しみ)を無くすために表現する愛

・・・それは、あなたがこの世界で、他の存在(・・・に見える本当は自分自身)に

「愛」を表現する「シェアリング」・・・とも少し違うかもしれない

 

・・・もしも、あなたが自分の左手の小指の痛み(悲しみ・苦しみ)を

知っていて、気付いていたら、さすったりもんだりするのでないだろうか?

何らかの働きかけで痛みがなくなるのならば、何でもやってみることだろう

無分離・無限愛なるイシキとして、私たちも、単に、そうしているだけだ

 

無限愛に近付こうとして、無理やり、愛に成ろう、愛で在ろうとしたり、

良い人に成ろう、愛情深くあろう・・・としても無理があるだろう

 

実際に人類は宗教などに於いて、「そう在ろう、成ろう」と努力してきたが

中々そうは成りゆかず、他宗教を弾圧し、神の名のもとに他を傷つけ・・・

全てを受け容れる「無限愛」なる「イシキの在り方」とは真逆の表現を続けてもきた.

 

あるいは、他の人々から自分を隔絶させて、「そう在ろう、成ろう」と頑張ってきたが、

全てを受け容れる「無限愛」なる「イシキの在り方」からは離れてゆくばかりでもあった

 

しかし、あなたにはいま・・・もっとやさしく・ラクで・楽しい道もある

それは・・・自分が感じる「抵抗」と「執着」を手放し(愛に還し)続け

前述した・・・他に見える存在に愛を表現する「シェアリング」という

「めちゃすごアイテム」を使って、

神と決めて、神として生きる道だ・・・

 

その時・・・本来の「ありのまま」のあなたが現れてきて、

全ては「愛である」「愛でしかない」「愛しかない」・・・ことを知り、

「愛として」「ただ在る」ことが・・・あなたの「フツウ」になるだろう

 

やがて、この世界の全てを、「愛として」見るようになり、

それら全てが「ただ在る」だけでいい・・・ことを知るだろう

そしていつかは、アセンションした人々がそうであるように、

この世界の全てを「ありのまま」で愛するだろう

 

それは本当は、いま・ここで、すぐにでも、

あなたがそうすると決めるならば、そう成る ・・・あるいは始められる

何故ならそれは、全てあなたの視点・捉え方・感じ方・在り方なのだから

 

誰もあなたの視点・捉え方・感じ方・在り方を強制・強要することは出来ない

また、誰かに代わりにやってもらうことも出来ない

あなたが自分でそういう視点・捉え方・感じ方・在り方に成り行くしかない

それには自分でその道をゆくと決めて、いま・ここから歩き始めなければ、そうは成りゆかない 

 

そして、「分離幻想」を超えたとき、

「人に愛情深くしよう」「良い人であろう」と努力することもなく、

全ては、ひとつのイシキ・ひとつのイノチであって、

ひとつのカラダの右足が左足にしている・・・と知るだろう

「あなたはわたし」「わたしはあなた」なのだ

 

イエスは「自分にして貰いたいと思うことを人にせよ」

「汝の隣人を汝自身のごとくに愛せ」

「あなたが兄弟にした事は私にしたことである」・・・などと伝えてきた

 

それは実在・実相の「無分離」と、

この世界の全てを「ありのまま」で愛する

「無限愛」なる「イシキの在り方」から伝えたことだ

 

アセンションした人々にとって、

この世界の全てを「ありのまま」で愛する

「無限愛」なる「イシキの在り方」で、

「愛として」「ただ在る」ことは、存在の全てだ

 

それは、あなたが呼吸をするようなもので、

あなたが呼吸を止めるわけにはいかないように

その在り方でいるのが「フツウ」なのだ

 

そしてあなたの本質もアセンションした人々と全く同じだ、

自分と世界の全てを「ありのまま」で愛し

無限愛」なる「イシキの在り方」で、

愛として」「ただ在る」・・・のが

本当はあなたの「フツウ」なのだ

 

「ひとつなるもの」・・・大いなる源として、

「自己の内に全てが在る」と知り、

無限歓喜・無限自由で在ることが、

本当はあなたの「フツウ」なのだ

 

そして、アセンションした人々がそうしたように

輪廻を選択・決定せず・・・死を超えて、

第七イシキへとイシキの回帰をすることが

本当はあなたの「フツウ」なのだ

 

もしかしたら、いまはまだそれに気付いていないかもしれないが

あなたは、「めちゃすご無限存在」なのだ

 

あとは、おごり・驕り」も「おくす・臆す」も無く、

ただ・・・それを「フツウ」のこととして

受け容れ自覚してゆくだけだ

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共に、ただ・・・手放して、

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない、永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・「こだまなくらしサークル」のヒビキ

アセンション動画

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