チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」



kodamaより・・・ここに書いたものは、私が主に、フレーズ・コトバ・文・イメージ・

ビジョン・インスピレーションとして受け取り、感じたものを文章にしています。

ガイドによると、そこには、私達がイシキを投影しているこの現実世界の

二極性(陰・陽)の二元論(良い・悪い)・コトバという狭い表現・私の翻訳という

幾つものベールがかかっています。

そこで、読んでいただく際には、それらのベールの向こうを見透かすような

眼光(がんこう)紙背(しはい)に徹(てっ)す

《紙の裏まで見通す意から書物の字句の背後にある深い意味をも感じ取る》

・・・といった感覚を持っていただくこと、・・・それは別の言い方で言えば、あなたの内なるフィーリングで感じ、

又、あなたの内なる自己が真実と感じるモノだけを受け取る・・・、ようにすることです。

しかし、同時にこのベールの向こうを見透かすように読み、又ワークを試すことが、

あなたや私自身のイシキを開く、イシキの変容、内なる本質との再統合、

チャネルを開く、ヒーリングなどの練習となっているそうです。

私自身これらを書くことによって、日々、深い癒しや気付き・変容を感じています。

そして、以前に書いた文章は、その気付きと共に加筆修正してゆきますので、

常にどのページも制作中と捉えて頂きたくお願いします。

(・・・私自身、何も見えない状態で書いているため、少しでも見え始めると、

ガイドの言った本当のイミをようやく理解し始め・・・それは、真に「知る」まで続くからです)


評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第45章


投影宇宙C

小さなシャボン玉と一点集中


※投影宇宙・・・自己のイシキの内に在る「情報」が投影されて、

現実世界の見えるカタチの体験や経験となって現れる、個々のオリジナル認識宇宙のこと。


源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

「全てのイシキ存在たちの源・・・神である全体・・・から、

地球次元の見える領域で体験している私たちの「やっほー」と呼ぶ声に答えて、

源の波動のヒビキ・・・コダマとなって還って来たメッセージ・・・というイミ。」

 

さて、お話は少し寄り道をしますが、ここで情報の罠についてお伝えしたいと思います。

 

この次元に於いては、誰もが情報があって始めて色々な事柄をわかってゆくものです。

故に情報は知識ともなり、知識はあなたを拡大成長させる

素晴らしいツール(アイテム)ともなるのですが、

知識を知識のままにしておいたのでは、それは本当に知ったことにはなりません。

・・・@概念を概念のままにしてしまう

 

そして、実際にやってみて、もしも扉の前まで来たのなら、

その知識(既知のモノ)も手放さなければ、無限(未知のモノ)を現すことは出来ないのです。

どんなに素晴らしい情報であろうとも、既知の中に未知は無いからです。

・・・A概念を置いてゆけない

 


宗教・道徳・スピリチュアルの罠


 

@概念を概念のままにしてしまう

 

あなたが「料理のレシピ」という情報を受け取ったとします。

それは、@簡単でA新しい作り方でBとても美味しくて

C深みのある味・・・が経験出来る料理です。

 

あなたがその料理を実際に体験・経験したいと思えば、

あなたはそれを作って食べてみることでしょう。

 

しかし、もしもあなたが実際にそれを作って食べてみなければ、

それら(@簡単であるA新しい作り方であるB美味しいC深みのある味である)の

どれも実際には体験・経験することは出来ません。

 

しかし、宗教や道徳やスピリチュアル情報に関しては多くの人が、

作ってもみない、食べてもみないまま、知識を得ただけで満足し、

わかったつもりや比較や評価や批判などに陥ったり、

あれからこれへと、多くの情報を渡り歩いたりし続けているのです。

 

それは何故でしょうか・・・、目に見え、実際に作ってみることが出来、味わえる料理とは違い、

そこには、見えない領域のことが含まれていて、

未知への恐れや畏敬の念などが忍び込んでくるからでしょうか?

・・・あなたはどんな風に感じるでしょうか?(一緒に考えてみてください)

 

さて、実際にやってもみないまま知識を捏ね回しても、

それらは全て「机上の空論」でしかありません。

(机上の空論・・・机の上だけ、頭の中だけで考えた、実際には役に立たない理論や考え)

 

もしかしたら、彼・彼女は他の人々よりも情報を知ったかもしれませんが、

情報を情報のままにしておいたのでは、それは永遠に情報のままで、

実際には何も本当には知ったことにならないでしょう。

 

もしも何もしないのであれば、それは人間キャラのコスプレに気付かぬまま、

自分にとって耳障りの良い情報を捏ね繰り回しているに過ぎない、

単に、古い概念(例えば既存の宗教)を、新しい概念(例えばスピリチュアル情報)にとり変えて、

これからも人間キャラのゲームをやり続けてゆくだけに過ぎない、

 

そして多くの存在は、やるとしても土壇場になって(極になって・行きつくところまで行って)から

ようやくやり始める・・・それは8月31日まで手を付けようとしない夏休みの宿題のようなものです。

病気になって、自分や家族に何かがあって、困って、

・・・始めて内を見始める(そして手放し始める)のです。

 

もちろん、それでも遅くはないし危険もないし、何も問題はありません・・・、

また、個々の冒険ゲームの筋書き(スケジュール)なのですから、

批判しているわけでも、あなたがそうだと言っているわけでもありません。

 

ただ、そういう傾向にある人類や人々を見て、あなたはどう在りたいかを、

あなた自身で決めていただく材料(あなたの料理の素材)にして頂きたい・・・、と感じているだけです。

 

さて、情報をただ集めだけでなく、自分自身で試してみるのは、始めて作る料理のようなものです。

しかし本物の料理とは違い、材料費も光熱費もまったくかからない・・・笑、

そして、たとえ失敗しても、いやいやながら食べる必要も、捨てて無駄にする事もない・・・笑、

実際には、何も、恐れることも困ることも、皆無なはずなのです。

 

そして情報を、もしも試してみるならば、効果があったりなかったりして、自分にとって使えるかどうか、

(美味しいか、好みではないか、定番料理となるか)・・・が、始めてわかるのです。

 

そして色々試してみて、その存在が本当に気付き始めたのなら、

わかったつもりや比較や評価や批判に陥る・・・など、本当はありえないのです。

 

何故なら、本当に読み解けるようになれば、あらゆる宗教・道徳・スピリチュアル情報の・・・、

その中には必ず「愛」があり、分離を超えるような内容が見えてくるはずだからです。

(無分離ならば他への批判など出来ない・・・左足の悪口を言う右足・・・)

 

また、無時間、無極なのですから、遅れているも進んでいるもなくなり、

他との比較や評価は無意味であることも見えてくるはずです。

 

(スピリチュアルな歩みに進んでいるも遅れているもない

・・・左足より一歩早く前に出たと威張っている右足、

そして、全ての存在は、すでにメガネをかけている、

すでに常に永遠に神の真っ只中に居るのだから・・・)

 

故に、わかったつもりや比較や評価や批判に陥っている内は、

概念を概念のままにして・・・、人間キャラのゲームの中にいる・・・、ということになるでしょう。

 

しかし、たとえあなたの周りの人がそういう状態にあっても、

彼・彼女は、いまはまだ、人間キャラのゲームの中にいて・・・、

それらを見ない事を選択しているに過ぎない・・・と、あなたはただ見ることです。

 

(楽しんでいる・・・というのはきっとまだ語弊があるとは思いますが、

実のところは、誰もが自分の思うがままに実現する世界を体験できている、

とても幸せな存在なのです・・・そしてそこにはまったく危険もないのです・・・)

 

そして、もしもあなたが、わかったつもりや比較や評価や批判を感じることがあっても、

これまでもお伝えしたように、それらに罪悪感や遅れを感じる必要はない・・・、

ただそれらが感じられる内は、自分はまだ人間キャラゲームの中にいる・・・、

と知るだけにして・・・、そしてまた、ただ手放し続ける・・・だけです。

 

やがて、あなたの内なる「神のアイデンティティー」が現れてきたならば、

そんなこと・・・(わかったつもりや比較や評価や批判)など、

「どうでもいい」(問題なし、ノープロブレム、大したことではない)・・・となってゆくのですから・・・。

 


A概念を置いてゆけない

 

宗教や道徳、様々なスピリチュアル情報に惹かれる理由とは何でしょうか。

何故、人々はその道を探求するのでしょうか。

 

それには、不足や不安や恐れが介在している場合、自己探求として、未知に惹かれて、

・・・など様々な理由があると思いますが、

 

これまでも多くの存在が、その事を実際に試してもみないまま(料理を作って食べてみないで)、

ただ頭から信じ込むこと、信じなければならない・・・と自分を強要し続けたことで、

逆に、自分自身のイシキの囚われを創り、

どこか遠くにいる偉大な神と出会えぬまま、何度もの輪廻を繰り返してきました。

 

自分自身が信じたことが、永遠に救い主を待ち続けるイシキ層や、

善と悪とが戦い続けるイシキ層へと彼・彼女を導き、

いまも多くの私たちの同胞が、彼らを目覚めさせんとして働きかけ続けているのです。

 

あるいは、人生を良き方向に向かわせたいと得たスピリチュアル情報が、

逆に自分自身のイシキの囚われを創り、彼・彼女をこの世界を生きるための満足に留まらせ・・・、

更なる成長拡大(全てが実現できる神なる状態を現すこと)を、逆に遠くさせてきました。

 

(例えば、大金持ちになる、成功する、ステキな恋人を得るなど・・・何を創造しても素晴らしいが、

もしも幻想の創造物・状況・人にイシキが囚われれば、同じところを堂々巡りする・・・

これは幻想の中で、サイコロ人生ゲームをやって満足しているのと同じ、

 

・・・幻想の中の一瞬の満足か、永遠の満足か、あなたが決めなければならない、

もしも永遠の満足と決めるのならば、どんな良いモノにも留まることは更なる成長拡大を阻む、

故に、良いモノに留まらず手放し続ける・・・それは、さらに素晴らしくなるのだから)

 

それは、人間とは、実際には「人間を体験している神」なのですから、

その絶大なる自己のパワーゆえに、全て、自分自身が信じたことが、自分自身を縛る、

(あなたのイシキがあなたを縛る)・・・のです。

 

そして、この世界で教えられ、信じた、概念を置いてゆけないからこそ、

イシキの囚われにより、それを体現する幽界に波動共鳴し、誘われてきたのです。

 

さて「置いてゆく」・・・とは、何も死ぬときに置いてゆくというイミではありません。

もちろん死などなく、それは単にイシキの移行に過ぎず、あなたは永遠に存在し続けるのですが、

死という変化を待たずして、全ては「いまのいま」イシキを変容させ続けて行かなければ、

 

自分自身が信じたことが、自分自身を縛り、

やがて死という変化を迎えても、大抵は(中にはそうではない存在もいるかもしれませんが)

それを体現する幽界に誘われることでしょう。

(それはとても良い幽界かもしれないが・・・例えば第五、

・・・しかし、輪廻を繰り返すことに変わりは無い)

 

そして、もしもあなたが、「どうやら自分は輪廻は、もう十分やったような気がするし、

そろそろ輪廻を抜け、未知なる冒険をやってみたいな」・・・と感じ、

その道を選択するのであれば(再統合・アセンション・すでに在る統合の自覚・の選択)・・・、


@ まずは自分自身を、人間を体験している神である・・・と決め、

 

A 自分も、そして全ての他人も、あなたが人間として構築した記憶から創った、

単なるゲーム上のキャラ設定(記憶)である・・・と理解し、

 

B 自分に起こることや、手にしたどんな情報(宗教やスピリチュアル)も、

単なるゲーム上の設定やアイテム情報(記憶)である・・・と理解し、

 

この幻想の世界・・・人間キャラのバーチャルゲームで、日々あなたの投影宇宙に、

 

起こることをただ判断せず、ただ罪悪感を持たず、

記憶によって付け足してきたこと(様々な観念・囚われ・執着など)全てを、ただ手放し続ける

・・・ことが、どうしても必須となってゆくのです。


そして、あなたがAを本当にわかった(理解した)ならば、

あなたはもう、誰にも文句は言えなくなる・・・、

 

そして、あなたがBを本当にわかった(理解した)ならば、

あなたはもう、起こること全てに文句は言えなくなる・・・、

 

もちろん文句を言いたくなるのは、私たちにも理解できますし、

言っても言わなくても自由なのですし、文句がいけないと文句を言っているのではありません。

ただ、自分の投影宇宙に、今度は新たにどんな情報(記憶)を付け加えているのかに、

あなたにちゃんとイシキ的になっていただきたい・・・と思うだけなのです。

 

だって、ここはあなたが体験する為にあなた自身が創りあげた

あなたの投影宇宙・・・人間キャラのバーチャル体験空間・・・で、

あなたが加え続ける情報(記憶)が、ただ再現(投影)され続けてゆくのですから・・・、

 

そして、本当にそうと知ったのならば、どんな情報(記憶)にも縛られないことです。

この世界のコトバで語られ、伝えられたものは、

たとえそれがどんなに素晴らしい情報であろうとも、

それは単なるツール・アイテムであって、

全てはゲーム上の情報(記憶)にしか過ぎないのです。

 

また、人は情報を得て成長しているような気になっても、

知識の枠から出てはこない・・・ということがよくあります。

それは、知識依存や知ったつもり・・・などと表現することが出来るかもしれませんが、

知ったかのように思い込んでしまい、出来る限りそこに留まろうとする、

 

また、情報を自分のかつての経験体験で推し量り、既成概念に全て落とし込んで終わりとし、

未知へは入ってゆこうとしない・・・ということもあるようです。

 

しかし、あなたがすでに知っていること、あるいはいまのいま知ったこと(既知のモノ)で、

いくらそれを量ろうとしても、決して新しい冒険(未知のモノ)は始まらないのです。

 

その概念・観念・・・ゲーム上のアイテム(記憶)にあなたがしがみつけば、

それは、あなたの内なる無限(神としてのアイデンティティー)が現れることをジャマし、

あなたのイシキ状態は、あなた本来の神としてのアイデンティティーに還ることが出来なくなり、

再び同じ道を辿ることを余儀なくさせるでしょう(輪廻の輪に留まる)。

 

それでもまったく危険も問題もないのですし、無時間なのですから、

脅かすことも急かすことも無駄でしょう。

全てはあなたの選択と行動(イシキの解放・・・手放すなど)にかかっているのですから、

あなた以外の存在には誰にもどうすることもできないでしょう。

 

(しかし、イエスはやり遂げました、それがイエスが十字架の道を選択した目的のひとつでした・・・

39・死を超えるF人生の十字架

十字架にかかるというセンセーショナルな出来事を通して・・・、

また一旦人々から離れることで、イエスのキャラやアイテム情報記憶への

依存・イシキの囚われを手放させ・・・、弟子の方々や身近な人々を再統合させました、

ちょっと過激だったかもしれませんが・・・まさに的を得たり・・・でしたね)

 

さて、こうして私たちがコトバにした途端に、

それはもう既知(すでに知られたもの)になってゆきます。

しかし、未知のモノの中にこそ本当の答があり、既知のモノの中には決して答などない、

未知=未だ知られざるもの=無限・無極・無分離・無空間・無時間・無始・無終なるもの

なのですから・・。

 

故に、その道(未知)には、イエスの弟子の方々や身近な人々が再統合した時のように、

全て(自分や他人というキャラ、知識や情報というアイテム、

それらへの依存・イシキの囚われ)を手放して、

あなた一人で入ってゆくしかないのです。

 

「人間を体験している神」・・・だと、あなたが自分自身できちんと選択し、

「あなたの内にある全て」・・・(全体・神・源)を

あなたが自分自身で現そうとしない限り(人間キャラの記憶を全て手放し続けない限り)

それは、決して味わうことの出来ない、幻の料理であり続けることでしょう。

 


小さなシャボン玉と一点集中

 

人間のアイデンティティーとは・・・、

あなたがこの世界を体験しようと、ここ(第一イシキ・天界)にイシキを移行した時から、

様々な波動から寄せ集め構築してきた、

単なるゲーム上の人間キャラの為の情報(記憶)であったのですが、

 

神としてのアイデンティティー(神自覚)を一旦置いたあなたは、

これまでずっと、人間のアイデンティティーの情報(記憶)を、

自分を構築する大切な情報(記憶)として、手放すことを恐れてきたかもしれません。

 

そして、人間キャラやアイテム、構築したあらゆる情報(記憶)を手放す

・・・というと、それはまるで人間としての大切なデータを全て捨て去り、

記憶喪失になりなさい・・・と言われているように聞こえるかもしれません。

 

そこには、アイデンティティーを失う恐れ・・・、記憶喪失という恐れ、

また、(神自覚を置いて)この世界を渡ってゆくのに、なんとなく不安定感を感じる為に、

自分のきちんとした「立ち位置」や、自分としての何らかの「確証」が必要だと感じ

人間はそれらの情報(記憶)にずっとしがみついてきました。

 

しかし手放すこととは、それら人間としての情報(記憶)を全て失い、

忘れてしまう・・・ということでは決してないのです。

 


空中に浮かんだ小さなシャボン玉を想像して下さい。

小さなシャボン玉には、まわり(全体)の大気との間に、薄い石鹸液の膜があります。

その薄い石鹸液の膜がはじけると(手放すと)、

小さなシャボン玉の中の空気はまわり(全体)の大気と溶け合って、

小さなシャボン玉は消滅し、まわりの大気(全体)だけが「ただ在る」ことになります。

 

あるいはあなたのイシキが、全体の中の、針の先ほどの小さな一点に集中していたとします。

もしもあなたのイシキがその一点集中を止めたなら(手放したなら)、

そこには全体だけが「ただ在る」ことになります。

 

「イシキの囚われ」とこれまでお伝えして来たのは、このシャボン玉一点集中に似ています。

あなたのイシキが全体の中の何か一点に集中していると(それは良くも悪くもないのですが)、

あなたのイシキが集中しているその一点が、全体から選択されることになります。

 

あなたのオリジナル投影宇宙は、あなたのイシキ状態を投影し続けるのですから、

全体から選択されたその一点が、あなたの体験として起こります。

 

それは、あなたにとっては良いことも悪いこともあるでしょうが、

どちらにしてもあなたがその一点集中を手放さない限り、

あなたのイシキはその一点に囚われていることになり、他の選択は不可能になります。

 

しかし、もしもあなたがシャボン玉を割るならば(手放すならば)、

あるいはイシキの一点集中を止めるならば(手放すならば)、

全体の「ただ在る」ことが見え、あらゆる選択肢が常に存在して、

いつでも無限の可能性が開かれていることになるでしょう。

 


これまであなたはゲーム上の人間キャラの為の情報(記憶)によって、

あらゆる一点集中を続け、様々な体験を創ってきました。

 

それは、様々な観念・執着・判断・罪悪感・・・・、

自分や他人というキャラの限定(偶像設定・イメージの固定化)・囚われ・依存・・・、

質問5でイメージの固定化についてふれています)

などの情報(記憶)の中のあらゆる一点であり、

 

それらあなたの情報(記憶)データの中から、あなたのイシキが一点集中をしているものを、

あなたの投影宇宙は、ただ見せ続けてきました。

 

しかし、あなたがそれらをどんどんと手放し始めると(一点集中を止める・シャボン玉を割る)、

それは一点集中から全体へとイシキが移行し始め、

シャボン玉の中の空気は、全体と溶け合い始めるのです。

 

そこには、たくさんの一点が絡み合っている事柄もあり、

無イシキで一点集中していることもあるため、

(一点もシャボン玉も、いつも、いくつも、創り続けている)

 

@ 始めはイヤなことから手放していって、

A 徐々に良いと思うことも手放し、

B 最後にそこに至るまでのすべての情報も手放す

・・・といったように段階を踏むことが必要となるかもしれません。(人によって様々でしょう)

 

そしてこのことは、「自我を捨てる」・「悟る」・「放下する」・「執着を取る」などと言われてきました。

コトバとは、狭い領域の伝達法であり、二極性の中から出られないために、

これまでのコトバも、そして私たちのお伝えすることも同じことなのですが、

実際には情報(記憶)を手放し続けることを難しくしてきました。

 

そこで、あなたには、小さなシャボン玉」や、全体の中の「一点集中」を、

あなたのイメージでビジョン化して、

あなた自身のフィーリングで感じていただきたいと思います。

 

そしてゲーム上の人間キャラの情報(記憶)を手放す・・・とは、

アイデンティティー・記憶・立ち位置・を失うことでも、不安定になることでも、恐いことでもなく、

 

ただ単に小さなシャボン玉をプチッとはじけさせて、

様々な一点に集中し続ける自己のイシキを、どんどんと解放していって、

あなたのイシキを全体へとシフトし続けてゆくようなことだと

あなた自身で感じ、掴んでいっていただきたいと思います。

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共にただ手放して、

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・

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