チャネリングメッセージ・「こだまなくらし」



評価や批判を手放し ただ味わって・・・

あなたのハートにヒビクものがあれば どうぞ受け取って・・・

そう感じられないのであれば どうぞ手放して・・・


第39章


死を超えるF

人生の十字架


源のヒビキ(コダマ)で、みなさんにこんにちは。

「全てのイシキ存在たちの源・・・神である全体・・・から、

地球次元の見える領域で体験している私たちの「やっほー」と呼ぶ声に答えて、

源の波動のヒビキ・・・コダマとなって還って来たメッセージ・・・というイミ。」

 

「イエス・キリスト」のお話をする時、宗教に関連のある人からも、

まったくない人からも、抵抗を受けることが多くあります。

 

それは例えば、宗教に関連のある人からは・・・、

無礼な、恐れ多い、人間とはかけ離れた存在で神、

故に引き合いに出すべきではない・・・、というような抵抗、

 

また、宗教に関連のない人からは・・・、

宗教くさい、善人になる教えか、縛られるようでイヤだ、人類の争いの原因だ、

・・・というような抵抗、・・・などでしょうか。

 

しかし、これまでもお伝えしてきたように、全ての存在は、

同じ全体(源・神)から派生・発生した兄弟姉妹、同胞であり、

そこには一切の分離は無く、また一切の上下・優劣は無いのです。

(同じひとつのカラダ・ひとつのイシキ・ひとつのイノチ

右足と左足、右手と左手なのです)

 

神・人の区別や上下・優劣は、分離二元論(善・悪)といった幻想の中で、

人類が量り、人類が創り、人類が信じてきた、お話にしか過ぎません。

 

本当のイエスは、私たち全て(・・・あなた・人類・私たち)のであり・・・、

かつてこの次元(現実世界・可視世界)で、

皆と同じように悩み、迷い、苦しみながら人生を生き、

自分自身の内なる神(源)を求め、やがて目覚めた存在であり・・・、

そして、あなたと、私たち全てと、まったく同じ、美しき神成る存在・・・なのです。

 

またイエスは、決して「死んでなどいない」「亡くなくなってなどいない」のであって、

いまもなお、生き生きと生き続け、それは、

永遠無限オリジナルに表現された特別なイノチであって、

いま・ここ に、あなたの内に、側に、息よりも手足よりも近く、常に、在るのです。

 

(言って見れば、人類はこれまで誰一人として失ってなどいない・・・、

全ての尊き存在たちは、一人の例外もなく、久遠に、いま・ここに在るのです、

・・・ただあなたがそう気付き、そう感じることができれば・・・)

 

およそ2000年前に、イエスがこの次元(現実世界・可視世界)を生きたことは、

多くの人々が知っていることでしょう。

 

その名に抵抗のある人もない人も、その教えを知る人も知らない人も、

彼の誕生日(クリスマス)を知っていますし、祝ったり、遊んだりもします。

 

また人々が日常使う暦(西暦)も、イエスの生誕から創られたもので、

今年はイエスが地上(現実世界・可視世界)に生まれてから、

2011年と5〜6ヶ月経ったということになりますね。

 

(※西暦(せいれき)とは、イエス・キリストが生まれたとされる年の

翌年を元年(紀元)とした紀年法である。

キリスト紀元(基督紀元)や西洋紀元ともいい、

西洋紀元を略して西紀(せいき)とも呼ばれる。)

 

これほど知れ渡った存在で、多くの歴史も教えもありますが、

それらは、人から人へと伝えられるうちに、伝言ゲームのように変化してきました。

 

そして、イエス(神)と人間とは別々であり、

分離の幻想・・・本当は分かれてなどいない、

私たちは皆、ひとつのカラダ・ひとつのイシキ・ひとつのイノチである、)

 

イエスは人類からはるか遠くに去って、

空間の幻想・・・本当は全てがここに在る、)

 

イエスはかつて(過去)十字架に架けられ死んで、

人々は、やがて(未来)もたらされるイエスの降臨を待っていて、

時間の幻想・・・本当は「いま」しかない、

イエスは、すでに、常に、いま、居る、)

 

その御前に行くには、正しく、善人で、優れていなくてはならない、

二極性の幻想・・・本当は二元論の正・邪、善・悪、優・劣はない、)

 

・・・などと言われて、イエスは「十字架に貼り付けにされたスガタ」のままで、

いまもなお、日々人々の祈りを受け続けているのです。

 

私たちは、この尊き兄で在るイエスを心から愛しています。

そこで私たちなりのコトバを使って、イエスが皆さんに伝えたかったこと、

(それは、実は「死を超える」こと、「アセンション・再統合すること」なのです)

・・・を、お話したいと思っています。

 

どうか全ての抵抗を手放していただいて、

あなたの大好きな優しいお兄さんのお話を聞くようなお気持ちで、

イエスをあなたの身近な存在だと思って、

私たちのお伝えすることを、あなたの源で感じ、

あなたのアセンション・再統合に役立てていただきたいと思います。

 


キリストのイミ

 

キリスト・・・キリストとは、古典ギリシア語の慣用的日本語表記である。

「香油を注がれた者」を意味するヘブライ語「メシア」の訳語であり、

旧約聖書中の預言者たちが登場を予言した救世主を意味する。

この意味で、「キリスト」は固有名詞ではなく称号である)

 

さて、上記は辞書からの引用ですが、いまでは、「イエス・キリスト」といったように、

キリスト」自体がイエスの固有名詞として使われています。

 

しかし、キリストとは本来、「救世主」のことであって、

それは、私たちがこれまでも何度かお伝えしてきたように、

キリスト=救世主=自分自身を救うもの・・・、ということになるのです。

 

そしてまた、キリストを日本語に訳すと、「神・人」といったようなイミとなり、

それは、全ての幻想を超えて自らの内に神(源)を見い出し、

 

人で在りながら神(源)と成った者、

内なる神(源)と人を統合させた者・・・、神(源)と再統合した者、

アセンションした者、・・・ということになるのです。

 

ですから、あなたこそがキリストと成りゆく存在で在り・・・、

そう成りゆくために、いま・ここで、様々な経験と体験の冒険をしようと、

選択(スケジュール・プラン)して来ているのです。

 


奇跡の目的は再統合(アセンション)

 

イエスが生まれたその時代(約2011年前)は、まだ人類の波動は低く振動し、

多くの人々は、生存だけのイシキ、生殖、物欲、自己が生き残ること・・・

などの感覚に、波動が共鳴していました。

 

それは、イシキ層(次元)の説明でお伝えした第二イシキ層(次元)と同じような波動であって、

「愛のスケール」で言えば、愛を表現していないので目盛りはごく少ない状態でした。

 

そんな時代を選んで生まれたイエスは、様々な困難の後、

内なる神(源・全体)を見い出し(再統合、アセンションして)、

見えない領域から人類を助けるよりは(それももちろん出来たのですが)

幻想に囚われ、自分を傷つけ、敵味方でも傷つけ合う人々を、

この見える領域(現実世界)に於いて助けることを選択しました。

 

そして、を・・・、だけが全てであることを説き、

神(源・全体)とは愛で在ることを伝え、

どんな困難な時にも、ただ自らの在り方で、のみを示して歩いたのでした。

 

イエスがこの地上で行った数々の奇跡は、いまもまだ人類を不思議がらせていますが、

その奇跡の目的とメッセージは全て・・・、

 

あなたが目覚めれば同じことができるし、私よりももっと偉大なことが出来る

・・・ということであり、

イエスはその奇跡と教えとによって、人々を幻想から目覚めさせ、死を超えて、

彼ら自身の内なる神(源・全体)を見い出させ、

再統合、アセンションさせ)ようとしたのでした。

 

こうして、盲目の人の目は見えるようになり、足の悪い人は立って歩き、

水はワインとなって、石をパンに変え、水の上を歩き、

・・・といった、様々な奇跡を行いました。

 

(しかし、人々が癒された奇跡は、彼らが自らの低く振動していた波動領域を出て、

イエスに波動を合わせたからであって、同じことはいまもあらゆる場所で行われており、

また、物質的な奇跡は、第七イシキ層(次元)の波動の存在には、

奇跡ではなく科学であり、そこに不思議は無い、まったく無いのです)

 

しかし、それらの奇跡が行われ、実際に目の前で展開されても、

人々はそれを自分でも出来るように成る、あるいは成りたい・・・とは思いもせず、

そしてもちろん、この世界の幻想を超え、死を超え

内なる神(源・全体)を見い出そう・現そう(再統合、アセンションしよう)とは思いもせず、

 

ただそれら全てを、「大いなる神の御わざ」としてしまい、

イエス自体を、自分達とはまったくかけ離れた特別な存在とし、

自分たちの手の届かない、はるか彼方の高くに奉りあげてしまい、

(それは2000年以上経ったいまもまだ、そうなのですが・・・)

 

自らがそこに至れる、至ろう・・・、

また、そうと知れば、すでに至っている存在である

・・・、などとは思いもしないのでした。

 

たとえば、イエスが「パンの奇跡」を行った時にも、

(イエスが空中からパンを出して、群集に食べさせた・・・)

そこに居合わせた誰もがパンの方に興味があった・・・のです。

 

イエスのような存在に成る(アセンションする)ことよりも、

この現実世界を、何とかして生きてゆくことの方が大切であった

(もちろん奇跡には驚きましたが・・・)

だから、パンが空中から出現する訳よりも、目の前にパンがもたらされ、

自分たちの飢えが癒されたこと自体が、彼らにとってはまさに重要だった・・・、のです。

 

このことを、あなたにぜひ感じてみて頂きたいと思います。

(あなたは「きっとすごくお腹はすいていたのだろう」・・・と言うかもしれない、

しかし、それは後に満腹になっても同じでした・・・、)

 


「十字架の道」の選択

 

こうしてイエスが様々な奇跡を行い、

また神(源・全体)無限の愛を説いて歩いても、

人々は病が癒されたことや、空腹が満たされたことで満足し、

 

あなたが目覚めれば同じことができるし、私よりももっと偉大なことが出来る

という、イエスの奇跡の目的とメッセージは、決して伝わらなかったのでした。

 

さてこれは、決してイエスに力が無かったからではありません。

 

人は、誰もが偉大なる神であって、そこには壮大なる自由意志があり、

その人自身が、目覚めたいと、本当に、真剣に、徹底的に思い、感じるまでは、

例え暗黒の危険な旅であろうとも、この地上(現実世界・可視・第一イシキ・次元)で

波乱万丈の冒険の旅を続ける自由があるから・・・、なのです。

(遊園地で回転木馬に乗って上下し、お化け屋敷やジェットコースターで遊ぶ自由がある)

 

全ては、その人の決めてきた選択、スケジュール優先であって、

また当時の人類は、現在よりもずっと低い波動に共鳴振動していて、

人類全体が幻想に浸りきって、迷妄の中に埋没し、

飢えや不足に苦しみ、人を押しのけてでも自分が生きるだけで精一杯・・・、

 

スピリチュアル(精神世界の探求)などとんでもない、

インターネットも本などの情報もない、

もちろん、現実が幻想であることも、自分自身が神であることも、

思いもよらないような時代だったのです。

 

それは、誰にも手出しのしようがない・・・、

たとえ偉大なる時の聖者イエスであろうとも、

そこには、常に壮大なる自由意志立ちはだかる・・・、のです。

(しかしまた、その壮大なる自由意志がなければ、すべての体験は在りえないのです)

 

さて、こうして奇跡の旅を続けたイエスは、最後の手段として

荒療治ではありましたが、十字架の道を選ぶことにしました。

 

もちろん、十字架の道イエスの選択でした。

あれほどの奇跡を行ってきたイエスが、十字架を逃れられないはずはない

・・・、ということは、少し考えれば誰にでもお解りになることと思います。

 

また、これまでお伝えしてきたように、第七(イシキ層・次元)と成った存在にとって

カラダの消滅と出現、テレポーテーションは、たやすいことであって、

イエスはその時すでに、思った瞬間に何処にでも現れることが出来ていました。

 

では何故、イエスは十字架の道選択したのでしょう。

 

それは、これまで言い伝えられてきたように、

人類の罪を背負って十字架の道を選んだわけではありません。

(罪と罰は、分離と二極性の幻想の中でのみ機能する幻・・・

分離はないのだから右足が左足を裁くようなものです・・・)

 

それは、「死を超える」ため、再統合・アセンションさせるため・・・、

誰を?・・・人類を、身近な人々や弟子たちを、そしてあなたを・・・、

 

イエスはずっと、数々の奇跡や教えを通して、身近な人々や弟子たちにも、

「死」はないこと、永遠に続く「ひとつのイノチだけがあること・・・、を伝えてきました。

 

彼らは、イエスと共に長い旅と様々な苦難を経験し、

また、イエスが現した奇跡の全てにも立ち合ってきましたが、

それでもなお、彼らにとって「死」は大きな恐れであり、

イエスにはその時点で、彼らが幻想を超え、「死を超える」ことが、

どうしても出来ないことが見えていました。

 

このままでは誰一人として、死を超えることが出来ない・・・

再統合・アセンションすることは出来ない・・・)、と悟ったイエスは、

十字架と、復活(蘇り)の奇跡を通して、

彼らに「死」が存在しないことを示す道・・・(十字架の道)を選んだのでした。

 

そして、復活してからも彼らに様々なことを伝え、

その後、イエスの身近な人々や弟子たちの多くは、

第七イシキ層(次元・天界)へと解脱(昇華・再統合・アセンション)し、

いまもイエスと共に、様々なカタチで活動しているのです。

 

こうして、イエスの目的のひとつは完成されました。

しかし、最後の羊を見つけるまで・・・(あなたがアセンションするまで

いまもまだ、イエスはあなたの内に居て(見える全て、見えない全てに居て・・・)、

その無限の愛そのもので、あなたを、そして人類を助けているのです。

 


愛と許し

 

十字架の道の選択には、他にもいくつもの理由と目的があったことでしょう。

その全てをここで検証することは出来ませんが・・・、

それは、またイエスがそれまで多くの言い方で伝えてきた、

愛と許しを身を持って示す(自分の在り方で見せた)道でもありました。

 

イエスの様々な教えを検証してみれば、

色々な場面で愛と許しを(分離がないことも)説いていることが、

あなたにもきっとお解かりになることと思います。

(聖書はイエスが書いたものではなく、二極性や分離、人の解釈がかかっている、

その事を推し量って読む必要があります)

 

しかし、イエスは決して、生まれた時から特別で、始めから悟っていたのでも、

簡単に解脱(再統合・アセンション)出来たのでもありません。

 

あなたに想像していただきたいのですが、

イエスもまた、今のあなたとまったく同じように、人の子として生まれ、

本当の自分自身を見い出そうと、苦悩し、探求し、迷い、

ある時はあきらめそうになり・・・、といった、様々な困難と試練の道を歩んだのです。

 

けれどどんな時にも、我が胸に宿る、内なる神(源・全体)の呼ぶ声だけを頼りに、

「きっと・・・、必ず・・・、絶対に・・・、わかるはずだ、わかってみせる、知りたい、知ろう」

という確固たる決イを持って、それを見失わずに一歩一歩進んだのです。

 

今のような情報(スピリチュアル本やインターネット)も、交通の手段もなく、

今ほどの、世界の発展や人々の気付きもなく、暗闇に覆われていた地上に生まれ、

その中に於いて、自らの探求の旅を続けたのです。

 

イエスは長い探求の旅の末、

神(源・全体)と自分とは一体であることを悟り(分離の幻想を超え)、

その神(源・全体)を「天の父」と呼びました。

(天にまします我らの父よ・・・これは「内なる天」、自分の内のいと高き処です)

 

悟りの過程に於いて、神(源・全体)は無限の愛で在ることに気付いたイエスは、

自分もまた、神(源・全体)と同じ、愛そのもの、無限の愛と成ってしまわなければ、

神(源・全体)として在ることが出来ない・・・、

また自己の内なる神(源・全体)の現れようがない・・・、ということを知りました。

 

そして、十字架の道の選択は、

たとえ、どんなに酷いことをされようとも許し愛する・・・という

愛と許し」を、イエス自身の在り方で示す最高で最後のチャンスでもありました。

 

こうして、十字架に架けられた時も、その瞬間にイエスは彼らを許したのでした。

(それは、分離とは幻想で、全ては右足が左足にしていることだから・・・)

父よ彼らをお赦しください、彼らは、何をしているのか自分でわからないのです

とイエスは言ったと伝えられています。

 

・・・確かに、わからなかった(分離という幻想で見えなかった)からこそ、

彼らはそんなことをしたのですが、イエスが許した事によって、

その当時イエスを裁いた人の中にも、後にアセンションし、

今もイエスの側にいて共に活動する存在も多くいるのです。

(イエスの十字架の道の目的のひとつはまた遂げられたわけですね)

 

さて、このように、イエスは自分のプランを決して曲げませんでした。

何があろうとも、誰にどう言われようとも、自分のビジョンを決してずらしませんでした。

 

自らのスケジュール・プランにどこまでも忠実に、

それが、たとえ十字架の道であろうとも、

その目的(各人の内なる神との再統合)の為には、決して怯むことなく、

その一生を愛と許しを示して生き、いまもなお久遠に生き続けているのです。

 


人生の十字架

 

さて、常に申し上げるように、これは私たちの解釈であって、

あなたがどれを真実とするかは、あなたが選択し続けるのです。

故に全ては、ひとつの指針としてお受け取り頂きたいと思っています。

 

また、私たちがイエスの事をお伝えしたのは、

宗教上の問題を云々することが目的ではありません。

何が真実で、何が嘘なのか、何が間違いで、何が正しいのかを、

歴史を細かく探って、議論することも無意味だと思います。

(分離や二極性の二元論で・・・)

 

イエスの生きた道、そこからあなたが何を汲み取って、

あなた自身の体験(アセンション・再統合)に、どう生かすかだけを、

あなた自身で掴んで頂きたいと思います。

 

あなたにこのお話をしたのは、ただ愛として生きて見せたイエスの在り方を通して、

あなたにもイエスと同じ力があること(・・・それ以上の力があること)に

気づいていただきたい、そして死を超えていただきたい、と思うからでした。

 

また、誰もが各々の人生の十字架をスケジュールしてきています。

それは、あなたが目覚めのために決めてきた、自らのスケジュール・プランなのです。

そこには、「こんなことが自分に起こるなんて」・・・というような出来事も、

あるいはあるかもしれません。

 

しかし、どんな時にも、イエスがそうで在ったように、

自らのその目的(内なる神との再統合)の為に、決して怯むことなく、

清々とし凛として、在っていただきたい・・・、と思うのです。

 

そして、その時、起こってしまった事は変えられないかもしれないけれど、

(例えば原発事故や、身近な人の死などといった喪失)

あなたの感じ方は常に変容出来るのです。

 

そして、その為には、私たちが何度も言うように、

あなたが手放さなければ、それは変わらないのです。

悲しみや恐れを変化させられるのは、常にあなただけなのです。

それはどんな状況に於いても、常にそうであることを忘れないで下さい。

 

そして、どうぞ、常に手放し続けてください。

 


すでに居る場所にたどり着く

 

さて、それでも、イエスのようには生きられない・・・と大抵の人は思うかもしれません。

けれど、それで十分なのです。

あなたはあなた自身に成らなければ、結局は誰にも成れずにさ迷い続けるのです。

 

ですから、どんな素晴らしい聖人にも成ろうとはしないで下さい。

イエスのお話をしたのは、イエスのように成れと言うためではありません。

どうか、あなたは「あなた」に成ってください。

そして、そのためには、あなた自身の内奥の呼び続ける声をいつも聞こうとしてください。

 

偉大な存在たちもみんな、始めは外を捜し、やがて内に至って、

その一点を見つめ続け、やがては「自らが神で在る」ことに立ち還ったのです。

 

あの釈迦も、解脱を求めて何年間も荒野をさ迷い、あらゆる難行苦行の限りを尽くした後、

菩提樹の木の下で、自らの内奥に至って悟りを開いたのでした。

(すでにそのままで悟っている存在だと気付いた・・・)

 

ですからどうかリラックスして、外に見い出そうとせず、外を追い続けることなく、

あなたの内なる源(全体・神)を見続けていただきたいと思います。

 

また、人を愛さなければいけない・・・とか、良い人に成ろうとするのではない、

努力してそうするのではない・・・ということも知っていただきたいと思います。

 

ただ分離という幻想を超え、全てが自分自身で在ること、

そして自分自身が神で在ることを見ることができれば、

自ずとそう成ってしまうのです。(だって全てはあなたの右足と左足なのですから・・・)

 

誰かが、もしもその内なる神を自覚したならば、自分こそが愛そのもので在る事に気付き、

その時、誰もが愛と成って・・・、もうその在り方以外ではいられない・・・のです。

 

そして、あなたはまだそれに気付いていないだけであって、

もうすでに、ずっと、あなたは、愛そのものなのです。

ですから、私たちがお伝えしているのは常に、

あなたが「すでに居る場所にたどり着く方法」なのです。

 

ただ、あなたはあなたの内なる指針に従って進み、囚われや恐れを手放し続け、

「自分がすでにそこにいる」ことに、気付きさえすればよいのです。


 


拡大し久遠に在る

 

愛とは・・・何か、それは無限の愛、無条件の愛とも言われます。

愛をコトバで現そう、定義しようとして、人々は様々なことを言ってきました。

しかし、愛はコトバで説明することは出来ない、誰にも出来ないのです。

 

愛とは、コトバで現したり定義するものではなく、それを生きることなのです。

イエスがそう生きたように、愛は、その存在の在り方、生き方で示すことしか出来ません。

 

さて、この10年であなたのイシキはどのくらい拡大したでしょうか。

それはずいぶんと違ってきたと思うのですが、いかがでしょうか。

そして、もしもそうならば、イエス自身のイシキがどんなに拡大しているか、想像がつくでしょうか。

 

偉大な聖人たちはみんな、あなたの元を去ってはいない、死んでなどいない、

彼らはみな、ずっと拡大して、もっと偉大と成って、もっと無限の愛を現して

いま・ここ に、あなたの気付きを高めんと、久遠にそばに居続けているのです。

(それが見えないのは、ただ今はまだ、波動が異なっているからだけなのです)

 

以前お伝えした、全体である海一滴の海水とのたとえ話のように、

本当は、離れているモノなど何もないのですから、

彼らが、今も、そして永遠に、あなたの内に、外に、

無限の愛として、居る事をどうか感じてみてください。

 

多くの人が、遥か遠くに離れた存在として、

今もイエスや釈迦や神を想い祈りを捧げますが、

彼らとあなたは、存在的にも時間的にも空間的にも、離れてはいないのです。

 

もしもあなたが、聖人たちの名に於いて祈るのであれば(・・・彼らは聞いています)、

あなたの内なる天(自分の内の最も崇高な場・内なる神殿)に入り、静寂の中で祈ることです。

 

また、イエスの行った大きな行為ゆえに、そこにはまた多くの誤解も生まれ、

そのイメージとパーソナリティーは、2000年も前から止まったままでいます。

 

けれど、このお話を読んでくださったあなただけは、もう

イエスの「十字架に貼り付けにされたスガタ」を変化させ、

イエスという存在を、あなたの優しい兄として見て頂きたいと思うのです。

 

そして、イエスが選択した十字架の道によって、

弟子や身内の人々(また裁いた人々や多くの人々)がその後、再統合(アセンション)したように、

あなたも又、死を超えて、自らの内なる源(全体・神)を見い出す再統合(アセンション)を選択し、

あなたがすでに居る場所にたどり着いて頂きたいと思うのです。

 

そして、それこそが以前書いた、

「己が命を得んとする者はそれを失い、捨てんとする者はそれを得る」

・・・ということにつながります。

 

それは、まさしく「死を超える」ことなのです。

死を恐れてイノチに執着を持てば、やがては死ぬ・・・、

しかし、死などないと決めて、イノチへの執着を捨てた時、

永遠のイノチが続いていることが必ず見えてくるのです。

 

さて、今回の「死を超える」お話は、何回にも渡りお伝えしてきました。

それは、「死」こそが、人類の迷妄の基と思われるからです。

 

私たちはみんな、あなたが死を超えて再統合し、

私たち(イエスや聖人たちも・・・)と共に、笑い合える日を楽しみにしています。

 

すべてはあなたの創造です。

だからリラックスして楽しんで、

おそれや不安が顔をのぞかせたら、深呼吸をして吐く息と共にただ手放して、

宇宙はいつもあなたの味方で、あなたを愛し、あなたを守っています。

あなたはどんな時も安全で、安心で、

何があろうとも傷つくことなどありえない永遠で完全な存在なのですから・・・。

 

ガイドより・・・


私の体験

「死を超える」@〜Fを書く前に、ガイドから読むように導かれた情報がありました。

それらを読み、また自分の内で精査し、私自身は

「もう死ぬことは止めよう」「死などない」と決めることが出来ました。

その情報・・・本のことなど、詳しくは、質問5 の下の方に書きました。

kodama

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